武士道とキリスト教

 数年来、武士道文献を地道に読んでいる。といっても、新渡戸や『葉隠』ではない。井上哲次郎の『武士道叢書』だ。こんなもん、いまどきだれも読まんだろうな、というような、ものすごく古臭い、積極臭いしろもの。だいいち漢文だったり、古文だったり。さいわい、小さいころから、この手の文章の読みは仕込まれているので、私自身は、それほど苦ではない。が、ほとんど外国語のようなもので、畢竟とか、就中とか、現代語に訳す方が難しい。そのまんま、そういうもんだ、として、読む。

 井上哲次郎という人自体がちょっと興味深い、屈折した人で、長崎で英語をやって、東大で西洋哲学をやっていながら、結局、クリスチャンになることなく、むしろ仏教に回帰した。そのどこか興味深いか、というと、クリスチャンにならなかった、というところ。この時代、英語をやった学者連中が、ぞろぞろクリスチャンになっている。ならなかった方が珍しいくらいなのだ。

 そんなこんなで調べていたら、加藤和哉先生が新渡戸稲造の『武士道』の背景について研究しており、ひさしぶりにメールして、教えを乞うた。東大の哲学科の学友で、いっしょに八ヶ岳なんぞに行った仲だ。(そのせいでもなかろうが、いま八ヶ岳に住んでいる。うらやましい。)とはいえ、私などより、ずっと地道に研究に打ち込んでいる。しかし、別々の道を歩んで、数十年ぶりに研究を突き合わせてみると、なんと、みごとなまでに、表裏一体のことをやっていた。これは、とても、うれしかった。江戸思想は、以前より研究されているが、明治初期のあたりは、ちょうど穴であるだけでなく、あのあたりの近代の出発点の日本思想を見直さないと、現代の我々、というより自分自身の足元が見えないようなのだ。

 たぶん世間では、こんな話、ほとんど関心があるまい。読めもしまい。だが、大学人としての学問に対する誠実さ、アカデミックな組織的研究として、これから自分たちの世代で、このあたりの理解をきちんと確立していきたい、と思った次第。