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本山白雲と日本の彫像

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 彫像は、はやらない。習作さえ、やたら場所塞ぎで素材も手間も高すぎる。小さなデッサン像を作るのがせいぜい。そもそも彫像に値するほどの偉人がいない。建築はやたら予算が付くが、個人崇拝を嫌うせいか、いま、彫像にはスポンサーがいない。玄関ホールに置く、そこらの会社の創業者像くらいか。それも、1927年に資生堂の中にできた「立体写真」だらけ。

 明治時代はすごかった。ロダンという近代彫像の巨人を前に、高村光雲(1952-1934)、本山白雲(1971-52)、朝倉文夫(1983-1964)、そして北村西望(1884-1987)。私心を捨てて大義に殉じた維新と戦争の偉人に事欠かなかったし、また、国威高揚のために予算もついた。そして、それに応じられるだけの威厳のある像が作れた。

 だが、巨匠たちの銅像の多くが戦争で金属として供出されてしまった。偉人の銅像で作った砲弾なら、格別の威力があるにちがいないとでも信じるしかなかったのだろう。そして、戦後の彫像の衰退は惨憺たるもの。大きな像を作るに堪えない芯の貧弱さ。もちろん、いまさらダイエーだ、ソニーだ、松下だ、と言われても、勘弁してよ、というところ。まして政治家となると、みな清濁まみれすぎて、どうにもこうにも。それはひいては、現代日本人が模範となる人間像を失ってしまっているということでもあろうが、こぞってチンケなアニメのフィギュアに精を出しているだけというのは、あまりに情けない。