分類学の現在

 近代の学問は、ひとことで言えば分類だ。科学の名のとおり、なんでも類に分けて、系譜を整える。ところが、コンピュータでその根本が変わってしまった。パソコンのデータは、階層フォルダのツリー状に設置する、ということになっていたが、ハードディスク上の物理的な場所は、じつはでたらめで、一つのファイルでさえばらばら。どこになにがあるか、ファイル管理領域が記録して、ヴァーチャルにツリー表示していただけ。図書館でも近頃は、本を買った順、返ってきた順に適当に箱にぶち込んで、検索システムだけで、どこになにがあるか、管理している。昔みたいに、分野別、ABC順に本を棚に並べるなんて、人力でとろくさいことをやっているところは時代遅れ。

 そして、いまや知識も。もともと分野別に分類する科学に無理がある。境界領域だの、インターディシプリナリーだの、わけのわからんことを言う以前に、すべての物事は、本質的にあちこちの分野に重層的に関わっている。たとえば、ロンドンの2階建てバスは、英国文化学の問題なのか、機械工学の問題なのか、社会交通学の問題なのか、生活歴史学の問題なのか。どれかひとつに絞れ、それ以外は扱うな、という方がおかしい。だったら、単独で項目を立てて、いろいろなタグをつけて、あっちこっちからひっかかるようにしておいた方が事実に即している。これが、オブジェクト(対象・目的)指向。同じ対象を、必要な目的に応じて、さまざまなアプリケーションで呼び出せる。

 ところが、これで困るのは、大学だ。学部学科だの、専門領域だの、まさに前世紀的なサブジェクト(主体・課題)主義の系譜分類で構成されている。先進的な大学のカリキュラムでは、学部学科横断でアラカルトのカフェテリア方式を取り入れたりもしているが、そんな雑食の学生を指導したり評価したりする、幅広い教養を持った教員など、どこの国にも多くは無い。つまり、大学そのもの、教員自体が、カビ臭い図書館の分類棚のようなもの。そりゃ、新しい検索管理システムの導入で、まっ先に捨てられる。学会だ、学部だ、と、徒党を組むのが廃れるまで、かえって大学の方が、社会において知的にもっとも遅れた場になってしまう。