去年マリエンバートで

 文芸学科ともなると、こういうのも講義で扱う。が、ねぇ。知っての通りの作品だ。服装を手がかりに、全部をばらして並べ直せば、とりあえず話はわかるのだが、たいした話じゃない、というよりどーでもいい、まさにフランス的な、くどき話。

 当然、学生は、いかにもつまらなそう。わけがわからないように、わざとブチブチに切ってあるし、手がかりがつかめないと、繰り返しのヴァリエーションにしか見えない。これは、『パルプフィクション』や『メメント』のようなメディアインレスとは異なる。表象のみを扱う現象学に近い屁理屈。簡単に言えば、である、のか、でない、のか、わからない、体言止めの羅列のようなもの。カテゴリー(述語)はもちろん、サブジェクト(述語をつける主観)まで取っ払ったイメージだけが示される。サブジェクトはしっかりしている『マルホランド』の方がまだまし。

 まあ、これが冥界だ、とか、死の誘いだ、とか、理屈をつければなんとでも言えそうだが、それ以前に、致命的に話がつまらん。この男たちと女がどうであろうと、これらのすべてのイメージが、カテゴリーも、サブジェクトもなく、それゆえ、観客にとって、見せられる、でも、見せられない、でも、ないから。一方、作った連中や、これを評論する連中は、作った対象、評論する対象として、自分たちとイメージとが切り離しがたく表裏一体に癒着してしまっていることがわかっていない。この作品をごちゃごちゃやっている連中そのものが、観客からすれば、このイメージにぐっちょりへばりついている汚物だ。だから、映像の語りが不透明で、中の話がよけいに見えない。

 言わば、これは不毛な否定的弁証法。まともな弁証法は、である、でも、でない、でも、あるのだが、これは、でない、でも、である、でも、ない。だから、観客につながらないで、作者や評論家もろとも、内側に落ち込んでいっている。言わば、ベッドの中で作者や評論家が、作品と、うーん、そこじゃないのよ、いえいえ、そこもちがうわ、って、いちゃいちゃと、じゃれあっているだけ。観客からすれば、かってにやってろ、で、おしまい。