盗知と創知

 バカはすぐ、出典は? と問う。そんなもん、ねぇよ。すると、そんなのダメだ、研究じゃない、と言う。もしくは、洋書かなんかにネタ元があるんだろう、と疑う。まあ、実際、これまでそうやって、日本の学者や作家の多くが、ちょっとした語学力を悪用し、ネタ元のばれなさそうなものを密輸して、さも自分がこしらえたかのように売りものにしてきた。だからって、そんなやつばっかだと思うのは、guessもいいところだ。

 考える、というのは、端から見ていれば、何もしていないようにしか見えまい。ごろごろ、うだうだ。しかし、数学者でも、哲学者でも、文学者でも、世界中、そんなもの。感性を集中し、常識の垣根を低くして、あちこちの連想を試してみている。頭の中では、巻き貝と亀の甲がすれちがい、光の矢が降り注いで、椰子の木陰に揺れる。遠くの海の雲を眺めながら、言葉のサラダに塩を振り、胡椒をまぶす。たとえば、「盗知」なんて言葉、無いよ。哲学=愛知=フィロ・ソフィアから、プラジ・ソフィア=盗知となる。で、悪いか?

 合わせ鏡を飛び越え、表へ裏へと回り巡る通路が、この世にあることなど、思いもよらない人々の方が多いのだろう。そういう垣根を越えて遊ぶトリックスターの知恵は、理解できるまい。計画づくでできるものなど、しょせんパラダイム内のダメ詰めの話で、そのパラダイムの層から立体方向に飛び上がるのは、偶然の風にうまく乗れたときだけ。来年はおろか、明日の予定も立つわけがない。