役割の結晶作用


/社会は人数そのものが役割を備えている。しかし、自分のやりたい役が回ってくるとはかぎらない。ただ、振り分けにはきっかけがあり、それ結晶するのだ。だから、自分の性に合わないことは一回たりともすべきではない。/



 古代から、軍隊などの最小単位は、伍長ほか4名の五人組と決まっている。現場では、分裂や対立は避けなければならない。また、即断即決も重要だ。これが4人だと、和気あいあいと楽しげだが、どちらにも方向が決まらない。一方、6人だと、こんどは3、3に割れて、内部対立してしまう危険性がある。しかし、五人組であれば、すでに3人がまとまっているなら、伍長もそれを支持し、残りの1人を説得することもできる。たとえ2、2でも、伍長の決断で多数派が決まり、たとえ2人がどうしても不服従であっても、3人の側が2人を力でねじふせることもできる。

 くわえて、五人組においては、おのずからキャラクターが生じる。伍長は熱血漢。隊員の一人は冷静な論理派。もう一人は波のある感情派。そして、コミカルな道化役に面倒ばかりかけるオミソ役。こういう役割分担は、少ない人数でも起こる。二人組なら、デコボココンビになる。一方がツッコミで、他方がボケだ。三人組だと、優等生、体育会系、おちゃらけ。また、逆に多く、十二人くらいになると、その全体を引っ繰り返そうとするユダやダイバダッタのような裏切り者が出てくる。三十人にもなれば、かならず特権者と被差別者が生まれる。

 まるで芝居のようだが、不思議なことに人数の方が先に役割を準備しているのだ。その人数の中では、おのずからそれぞれの役をだれかが引き受けさせられる。リーダーと同様、さまざまな場面で役割がそれぞれの人物に「結晶」してくる。これは、文化的なアーキタイプと言うより、人間の内面の外化分業化であり、社会や歴史を越えて普遍的だ。

 ただ問題は、自分で自由に自分の好きな役が選べるのではない、ということ。役を争ってみても「キャラがかぶる」となれば、弱い側はその組そのものから排除されてしまう。それで、やむなく別のキャラクターにシフトする。では、どうやって配役が決まるのか。それは、ほんの小さなきっかけが決定的になる。ほんの一言が、リーダーにふさわしいと他のメンバーに思われれば、それ以降、しだいにその人物がリーダーになっていく。逆に、おちゃらけていると思われれば、おちゃらけ役にしか思われなくなっていく。いや、それだけではない。本人自身も、自分の立場を認識し、その役割としてふさわしい行動を採るようになる。こうして、その役割は、その人物に「結晶」する。

 しかし、人前で部下たちに、仕事では役立たず、などと言われて、それに自分でも冗談で答えるような宴会部長に、だれがなりたいだろうか。まして、みそっかす役だの、いじめられ役だのになりたいと思う人がいるだろうか。だが、分岐点には、なにかごく小さなきっかけがあったのだ。ウケを狙って、自分から人にツッコミ役を振ってしまったとか。限度を超えて飲み過ぎて、歓迎会でゲロをまき散らしたとか。いったん結晶化が始まると、周囲は、本人もそうしてもらうことを期待している、とかってに思い込んで、親切でその役への振りをしてしまう。本人がいくら自分の性格には合わない、今日から別の役に変りたいと思っても、その組の中に、変る別の役などという余地は残されていない。

 いま一回だけ、などと思ってはならない。人に説得されたり、周囲に媚びたりして、たった一回でも自分の性に合わないことをすれば、その役が結晶してしまう。逆に、ここ一番というチャンスには、間髪入れず自分のやりたい役の実力を示せるように、つね日頃から備えておかなければならない。その一回こそが、人生を大きく左右することになる。