薄覧狂記の雑学より実地実践の鍛錬を

/本を読めば知識が身につくなど、大きな勘違い。人望や経営は、暗黙知の領域にあり、練習なしには無理。本でコツをつかんだら、目の前の人間、目の前の仕事と向かい合い、心を働かせ、体を動かし、現実の中で習うべきだ。/



 貸会議室の大きな窓からは、ときに、おもしろい光景が見られる。隣のビルは大手企業。どこかの部の上司の机が窓寄りにある。まさかこちら側から丸見えだとは思いもしないのだろう。この上司、忙しそうにずっと一人でパソコンに向かっている、と思えば、その画面にはソリティアのトランプが並んでいるではないか。なんとみじめな人だろう。

 電車の中でも、周囲の人々がやっていることを見るのは楽しい。本屋でも、自分が本を買うより、人が手に取っている本の方が興味深い。難関の資格試験の参考書を熱心に読んでいる人には、頭が下がる思いがする。もっともXX検定のようなものだと、この人はなにごとにも騙されやすいのだろうな、と思う。いい年をして延々と携帯でゲームをやっている人は、いかにも人間関係が薄幸そうだ。最近の若い人は、むしろライトノヴェルを読んでいることが多い。携帯ゲームやマンガより、見た目はまともだが、話の中身は同じようなもの。コンビニで売っているような暇つぶしの雑学本を読んでいる人も少なくないが、こういう人は、人生そのものまでまるまる暇そうだ。

 そして、やはり多いのが、歴史小説やビジネス書。流行ものから、定番ものまで、いろいろ。しかし、これまた、え? この人がねぇ、と思うことの方が多い。まあ、自分に資質が欠けていればこそ、それを持つ主人公や評論家にあこがれる、というのはわからぬでもない。だが、本を読んで、その気になって、それでいったいどうするのだろう。言葉や行動は、それを誰がするのか、で決まる。ナポレオンのように周囲に期待されている人が強引なことを言っても、やっても、颯爽として見えるが、阿Qのようにぱっとしない人が同じことをすれば、ただのマヌケなでしゃばりにしか見えない。

 あなたは、織田信長ではない。坂本龍馬でもない。まして、評論家でも、タレントでもない。結局のところ、歴史小説やビジネス書も、いまの現実の自分自身と繋がっていないという意味では、ゲームや雑学本と大差ないのだ。もちろん参考書以外の本が役に立たないなどとは言わない。特異な一生を過ごした人物の話を読めば、自分の了見の狭さ、世界観の狭さを思い知らされ、自分とはタイプの異なる人々に対する理解の許容度も高まるだろう。しかし、本の知識の効能など、それ以上でも、それ以下でもない。

 自転車の乗り方という本を読んだだけで、自転車に乗れるようになるわけがない。MBAだかなんだか知らないが、知識ばかりの頭でっかちのバカ者どもが、珍妙な金融商品を振り回し、この数十年でいくつの伝統ある巨大企業を破綻させたことか。一方、むしろ現場の叩き上げで、学歴無しでも地道に会社を守り続けている人も多いではないか。

 人望や経営というのは、じつは暗黙知(タシット・ナレッジ)の領域だ。九九や年号のように、頭で言葉の知識として憶えるようなものではない。自転車の乗り方や水泳の仕方、キャベツの切り方のように、足や手が動きとして憶える。体や心が直接に身につける。これを学ぼうと思えば、実際に練習するしかない。やって、反省し、またやってみる。

 もちろん、ただひとりで練習して、我流の変なクセをつけてしまうより、指導書に解かれたコツで、注意点を知るということは大切だろう。しかし、あくまで練習こそが基本。本を少し読んでなにかを得たなら、いったん本は閉じ、目の前の人間、目の前の仕事にこそ向かい合うべきだ。心を働かせ、体を動かし、本に書かれたことを現実の中で習うべきだ。読書がソリティアのような現実逃避なら、人間を腐らせ、人生を失わせる。