市場にクズを売りつける詐欺仕事


/常連客の回帰性を作るために、商品の陳腐化や顧客の中毒化を図るというのは、仕事の倫理として根本を間違っている。儲けは必要だが、儲かる以上に大切なことがある。それを忘れれば、それはもはや仕事ではなく、ただの詐欺だ。/



 宗教は、神様、仏様、教祖様がいなければ、私は生きていけません、と思わせ、だから、死ぬまで毎週、拝みに来いよ、と言う。しかし、学校は、違う。卒業させるのが仕事だ。これまで世話にはなったが、もう、あなたなんかいなくても、私はやっていける、と学生に言ってもらえるようにする。慕って遊びに来てくれるのは大いに歓迎だが、いつまでも先生、先生と頼ってばかりいられるようでは、先生ではない。まして、親はそうだろう。子を自立させ、親などいらない、と言われてこそ、親としての勤めを立派に果たしたことになる。やたら実家に帰ってきて泣きつくようでは、子育てとしては失敗だ。

 いや、仕事は一般にそうだ。いつまでも大工が目を離せないような家なら、それは、欠陥住宅。飲食店なら、ほかにもいかがですか、と勧め、いや、もう満腹、とてもおいしかった、と言われてこそ、それで仕事が終わる。医者や弁護士も、きれいに片がついて、もう来なくてよいとなってこそ、仕事をやり遂げたことになる。

 マーケティングで回帰性と言い、常連客を作ることが大切だとされる。とくに、市場が大きくならない時代には、これしか方法がない。だが、回帰性を作り出すために、計画的に陳腐化や中毒化を図るというのは、仕事の倫理として大きく間違っている。

 たとえば、ある日本の自動車メーカーは、徹底的にコストを落とし、買い換えを促すために、「平均」の使用年数以上まで使えてしまう部品は「過剰品質」だと言って、そのギリギリまで耐用年数を削り落とさせる。ほとんどすべての部品が、ほぼ同時に寿命になって、完全廃車できるように品質設計していく。これを、なるほどムダがない、エコロジーだ、などと、言えるだろうか。一方、世界で愛され続けている、ある日本製の実用バイクは、まるでブロックのように部品の組み替えが可能で、壊れたところだけを取り替えれば、永遠に走り続ける。いよいよダメになっても、ダメになったバイクをいくつか集めて、生き残っている部品だけを組み直せば、また一台が再生できる。

 次々と新作を出し、いくつもカバンや時計を売りつける。季節ごとに、今年の流行だといって、服や化粧品を売りつける。それどころか、もともとまったく生活に必要でもないものを、さも必要であるかのように、売りつける。家の引き出しには、すこしも便利ではない便利グッズがゴロゴロ。使ってもいない大型の健康器具が物置を占拠。まして、ダイエット食品だの、健康食品だの、効能が定かでもないにもかかわらず、本人が欲しがるのだから、売りつけてなぜ悪い、と開き直り、痛みや辛さに苦しむ人々から法外な大金を巻き上げている。その原価を聞けば、もはや限りなく詐欺に近い。そのコストのほとんどが、さも効くかのように顧客を洗脳するための莫大な広告宣伝費だ。だが、連中は、安いより、高くして広告を多くした方が、実際、よく売れるのだ、とまで平然と言う。

 赤ちゃんのおむつを換えながら、将来、帰ってきてオレの介護をしろよ、など思うやつは、人の親ではあるまい。その笑顔で、すべてはすでに報われている。先のことなど、なにも求める理由がない。だいいち、生まれてきてくれて感謝するのは、自分の方だ。

 製品も、自分が労して作る以上は、実際に顧客の役に立ち、できるだけ長く大切にされることを願って送り出すのが本来の姿なのではないか。すぐまた壊れた、次のを買ってやる、と言われて喜ぶようでは、仕事の倫理として、根本がいかれているのではないか。儲かることは必要だが、儲ける以上に、仕事として大切なことがあるのではないか。