気の抜ける物事こそ内面の鏡


/酒食や文字、パソコンのデスクトップ、ボールペンの試し書きなど、気を抜いているところにこそ、内面性が漏れ出てきてしまう。隠すことを考えるより、日頃からこれらを鏡にして、内面性を磨いておきたい。/



 清貧で評判の村があった。大魔王は、小悪魔に、彼らを堕落させるように命じた。ところが、小悪魔がたいていのことをしても、だれも誘惑に乗ってこない。ようやく半年ばかりして連絡が。大魔王さま、うまくいきました。旅人に身をやつして見に行ってみれば、小悪魔は飲み屋のオヤジに化け、村人たちに酒をふるまっている。さあ、何杯飲んでも無料だよ。すると、村人たちは、一杯飲んで、キツネのように、たがいに薄っぺらなおべんちゃらを言い合い、二杯飲んだら、オオカミのように、目を剥き、歯を剥いて、罵詈雑言を浴びせ合う。そして、三杯目には、ブタのように、ヨダレを垂らし、イビキをかいて床に転がって寝てしまった。大魔王は感心して問うた。みごとな魔術だな、酒にキツネの血とオオカミの血とブタの血を混ぜたのか? 小悪魔が答えていわく、いえ、大魔王さま、ただの酒です。キツネの血とオオカミの血とブタの血は、もともと彼らの体の中を流れておりました。彼らは、これまで貧しく、本性を出す余裕もなかっただけです。

 これはロシアの民話。しかし、本性は、酒を飲まずとも、食事の仕方でも出る。平安時代の女官は、男たちが帰ると、彼らの使った箸を火鉢に突っ込んで、品定めをしたとか。食べ物を刺したり、口でねぶったりすると、箸の先に多くの灰が着く。それで、まあ、お育ちの悪い、などと、笑う。食事など、気を抜いて楽に、とは思うが、そのせいで、人前ながら、ふだんの生活ぶりが出てしまいがちだ。どう食べてもよいのなら、むしろふだんから、せいぜいこぎれいにいただくように心がけるに越したことはない。

 同様に、文字は人なり、と昔から言う。自信の無い人は、自信の無い字を書く。また、やたら右肩上がりの人は、劣等感と強引さがないまぜ。縦横が直線で、トメやハネのない人もいる。落ち着いた人なら、水平、垂直は守りつつ、適度に張りと緩急がある字になるだろう。いい年をして、字はヘタなので、などというのは、言いわけにもなるまい。

 もっと露骨に人が知れるものは、パソコン。アニメやヌードの壁紙を使っていたり、フォルダがぐちゃぐちゃだったりでは、いかにも仕事もできそうにない。人のネット履歴までのぞき見ることはまず無いが、デスクトップに妙なソフトやサイトへのショートカットが切ってあったりするやつと関わると、いろいろな問題の巻き添えになりそうだ。

 相手のひととなりを知りたかったら、白い紙とペンを渡して、このペン、どう? と聞けばよい。すかすかに直線ばかり引くなら、その人は、頭の中にすかすかの直線くらいしかない。ぐちゃぐちゃがちゃがちゃとわけのわからない線を引き、しまいにはインクを塗ったくって紙に穴をあけるようなら、しつこくて、うっとおしく、押しつけがましい。悪魔のような変な顔を描くなら、邪念と恐れが満ちている。男が女の子を描き、また、女が男の子の絵を描くなら、それはアニマ・アニムスと呼ばれるもので、内面は性別未分離な未熟な人だろう。いきなり家だの風景だのを念入りに描き始めたら、心、ここにあらず。あなたのことも気には留めていない。ようするに、紙は白いのだから、そこに描かれるものは、すべてそれを描く人の心の中から出てきたものだ。

 外づらを取り繕っていても、存外、内面というのは、周囲に露呈してしまう。あれこれとその隠し方を工夫したりするくらいなら、いつ知られても困らないように内面性を磨いておくことを心がけた方がいい。そして、書道、茶道などの教えにあるように、つね日頃から外面的な物事を鏡として、内面性の落ち着きを求めていきたいものだ。