喝のほんとうの意味


/怒鳴りつけ、棒で叩いてこそ指導だという勘違いは根強い。だが、禅の本来の喝や棒は、妄念を断ち切り、現実に向かい合わせ、逃げ場をふさぎ、そのすべてを自分のものとさせ、自分を無に還させる働きがある。/



 スポーツ関係者で「喝を入れる」などと言う者があるが、正しくは「活を入れる」。失神気絶してしまった者を復活させること。よくドラマなどでは、みぞおちを拳固で殴って相手を気絶させたり、武道家が「だーッ!」などと大声を出して一瞬に蘇らせたりする場面があるが、大量内出血の外傷性ショックか、パニック障害による低血圧や低血糖にでもならないないかぎり、みぞおちはただムダに痛いだけで気絶したりしないし、原因が脳の瞬間的な虚血である以上、大声を出しただけで直ったりもしない。それどころか、気絶は、脳梗塞や脳溢血の可能性もあるので、やたらむちゃなことをするものではない。

 たしかに痛みは、その状況に対処すべく、全身の交感神経を刺激し、活性化する。それでまた、懲罰や見せしめとして、軍隊や学校ではムチが濫用されてきた。英国海軍では奴隷船のように平気で水兵をオールなどで殴りつけてきたが、それに学んだ日本海軍でも「精神注入棒」などというのが横行した。一方、陸軍では、オールがないので、素手で拳固。学校も、「教鞭を執る」と言い、「ムチを振り振りチィパッパ」と歌うように、教師は生徒をムチで殴るのが当たり前だった。ピアノの先生なども、手が卵を掴む形になってない、と言って、竹の30センチ定規で甲を叩くなどという話は珍しくなかった。もちろん現代では、体罰は無いことになっている。しかし、気合いが足らん、喝を入れてやる、などと言って、いまでもやたらランニングや腕立て伏せ、長時間のくどい説教正座をやらせるのが好きな指導者は少なくない。

 喝と言えば、本来は禅。たしかに警策(けいさく・きょうさく)と呼ばれる棒もある。その歴史は古く、九世紀の中国、日本で言えば平安時代から、「臨済の喝、徳山の棒」が有名だ。わけのわからないことを言ったりやったりするのが禅と思われがちだが、それはあくまで、因果葛藤を無に還す仏教の教えに基づく。そして、喝には四態あるとされる。第一は宝剣の喝。人の心中にはあれこれと後悔や野心がうずまき、屁理屈をこね回して、自分もまたそれに絡め取られる。一喝一棒は、これを一刀両断に断ち切る。実際、妄念があると、座ってもなお身構え、ムダに肩などに緊張が出る。警策はこれを知らせるものだ。第二の喝は、獅子。これは、逆に、魂の抜けたようなまどろみを覚ます。だれでも猛獣に出会えば、目を見開き、耳をそばだて、手足もまた、いかようにも動けるようにするだろう。第三は、探索。さて、どう出るか、おまえがそこにいて、わたしはここにいる、という逃げ場のない土俵を立ち上げる。そして、最後は、喝の用なき喝。泰然自若、相手をも取り込み、天地をも飲み込み、自分など、そのどこにも無くなった境地を示す。

 ろくに修養も無い狐狸坊主だの、人間として半端なスポーツ指導者だのが、先人のサルまねで、喝だの、棒だの、振り回すものではない。頭蓋骨が飛び出し、逆棒を喰らう。あれは、ともに笑い、ともに泣き、土下座してなお人に慕われ敬まわれるような人間性があればこその話だ。自分を喝し、自分に棒し、自分を無に還してこそ、できることだ。

 肩書や経歴だけで喝や棒を振い、自分を尊大に見せかけようというような小人物には用はない。人間修養でも、スポーツやビジネスでも、自分がだれであれ、相手がだれであれ、真に良い人物を師と仰ぎ、その喝、その棒を鏡として悪習悪因の拘泥を断ち切り、正道に還ることが求められる。また、長く生きるなら、みずからもまた後進に無言の喝、無痛の棒を用いうるだけの威容を身につけるべく、深く研鑽を積まなければならない。