自己実現は他人からは得られない


自己実現といっても、現代人の本質は無。自己実現と他者認証とを取り違え、なにかのフリばかりして、ニセモノにすぎないのがバレないかと恐れ続けている。だが、むしろ無なら無の自分を大切にしてこそ、自己実現ではないか。/



 ヨーロッパを旅して、街の人々を見ると、こんなに人生を楽しんでいていいのか、というくらい、のんびりと家族で公園を散歩したり、一人でカフェで読書したり。さして働かないのに、これで結果が出ている。一方、この国は、満員電車に週末残業。そして、買い物、買い物、買い物。なぜ、かくも違うのだろうか。

 1943年、心理学者のマズロー博士が「自己実現」、セルフ・アクチュアリゼイションを提唱。日本では、六〇年代、なぜか看護学校から爆発的に広まり、ついでマグレガーやアージリス、ハーズバーグなどの経営学の論文の孫引き、聞きかじりによって、企業人向けの自己啓発セミナーなどで新興宗教のように濫用されるに至った。

 しかし、マズロー博士は、もともと類型的な精神分析学や行動心理学を嫌って、個々の人間の個性を重視すればこそ、あえてこの概念を他者認証の上に提起したのであって、自己実現は唯一無二。人によってまったく異なる。まちがっても、会社という枠組の中で立身出世したり、類型的で機械的な完璧な看護師になったりすることではない。

 しかしながら、サルトルが指摘したように、現代の人間は、自由であるべく呪われている。近代以前であれば、犬が犬に生まれ、猫が猫に生まれるように、農民は生まれながらに農民であり、商人は生まれながらに商人だった。ところが、現代では、人間は、何にでもなりうる代わりに、本質として何者でもない。無だ。なにかになっても、そのなにかのフリをしているだけ。他者のまなざしを前に、ニセモノであることがバレはしないか、と怯えている空虚そのもの。

 こんな調子だから、軍隊で階級分けをすれば、小さなバッチ一つをもらうために命でも賭ける。どう考えてもどうでもいい何とか検定でも、資格となれば合格のために必死で猛勉強。新興宗教やカード会社の会員制度でも、ゴールドやプラチナをめざして、要りもしないものを買い込み、上へ上へとめざす。本人はそれが「自己実現」だと思っているが、たんに他人に利用されているだけ。自分自身からは、どんどん離れて行く。

 誤解は米国でも生じており、アメリカン・ドリームとしてのむやみな成功渇望となって、かえって「自分探し」の抑鬱を引き起こした。日本も、自分自身を見失った人々が会社にいっぱい。つねに上司や同僚のまなざしを恐れ、日々、忙しがっているフリをし続ける。家に帰っても居場所がないから、会社で友人や愛人を作って、へらへらと作り笑い。だが、これらは、他者認証であって自己実現ではない。だいいち、職業はしょせん、カネのため、人のためのはず。ここにわけのわからない「自己実現」などという私情が入るから、本来の職責もいいかげんになる。また、店にも、変な自分探しの人たちだらけ。流行の服やカバン、最新の自動車やパソコンを買って、それを自分の「個性」だと言う。彼らの自己紹介は、自慢の持ち物の話ばかり。これを「モノ語り」と言う。

 アクチュアリゼイションは、いまここのこの自分自身を実際のものとすることであって、この自分ではない別の自分になったりすることなどではない。会社や店には、あなたの「自分」など落ちてはいない。どんな他人も、あなたの「自分」など与えてはくれない。最初からあなたが持っている自分を育てる以外、自分など手に入らない。
 空虚なら空虚らしく、とっとと家に帰って、のんびり過ごせばよいではないか。なにものでもないただの自分をもっと大切にしてこそ、自己実現ではないだろうか。