清泉、心底より湧かば、世の濁流も汚すを能わず


/職業教育として喰える職を教えても、みなが選べば、結局、だれも喰えない。むしろ、世のため、人のため、ただ一心に働いてこそ、世の人の方が、喜んでその人物を喰わせてくれるものだ。/



 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。されど、かくならずして、偉業を成すはかなわず。道を行かんと欲すれば、山谷崖淵あるこそ常なり。まことに西郷隆盛という人物は、すごかったらしい。いや、彼一人ではない。藩校から寺子屋まで、江戸末期の志操教育は、大名から下士まで、町民から農民まで、身分生業を問わず、数々のとてつもない人物たちを育て上げてきた。

 一方、昨今の不景気に便乗し、先々の就職に困らぬよう、子供たちに小さいうちからさまざまな職業教育をしておきましょう、などと言って、あれこれを学校や親たちに売りつける連中がいる。しかし、小説やマンガを書きたがる若者たちに問えば、その多くは、小説家やマンガ家になることそのものが夢。べつに書きたいことなどないから、作るのは、どこかのまがいもののような話ばかり。だが、これは、他の商売でも同じようだ。べつにその仕事をやりたいからやっているわけではなく、ほかに職がないから、人に言われたから、とりあえず儲かりそうだから、というだけ。本屋に行っても、店員は本のことなどろくに知らぬ。鮮魚コーナーに行っても、店員は魚の異名すらわからぬ。

 喰える職を求めれば、みなが同じものを選び、そのほとんどが喰えまい。だが、喰える喰えないに関わらず、世のため、人のため、ただ一心に働けば、世の人の方が、喜んでその人物を喰わせてくれるものだ。昔の経営人と言えば、たとえば、暗き灯火の下、自分の母親が夜遅くまで細かな針仕事をするのを見て幼少より心を痛め、国中の母たちを助けん、家々を明るき光で満たさんとて、安価なる電球の量産をこころざした。たとえばまた、世の人々が重き荷を背負い、車で牽いていく汗を眺め、これをおのが技術にていかにかせんとて、自転車にエンジンをつけ、ともに歩むことを考えた。優秀な人材は、これらの理念に賛同し、利害得失を越えて集結し、会社として大いに発展してきた。

 リースマンという社会学者は、近代情報社会では、レーダー型の周囲指向の人間ばかりだと言う。いわゆる、
空気を読む、という風潮。自分がどう思うか、よりも、他人からどう思われるか、が、すべての判断の基準。たとえば、ネクタイひとつでも、それを自分が好きか嫌いかではなく、こんなのをしていたらみんなに派手好きと思われはしないか、オヤジくさいと思われはしないか、ばかりを気にする。人事でも、自分の目で見て優秀な若者を採ることより、有名な大学で成績の良い学生を集めて、責任逃れを図る。

 まさに空気のように軽いやつら。人の数には入らない。しかし、リースマンに言わせれば、連中は「外向脅迫」として、西郷のような超然たる羅針盤型の自律指向を許さない。ニーチェもまた、最後尾にしか並ばない人々による圧力を、両肩にのしかかる「重力の魔」と呼んだ。つきあいが悪い、協調性がない、社交性に欠ける、偉そうだ、上から目線だ、何様のつもりだ、やつも、結局、金や名誉、地位こそが目的なのだ。自分たちの卑しい枠組で人を推し量り、自分たちの水準にまで引きずり落とさないと気が済まない。そして、ちょっとその人がつまづいただけでも、ケラケラと大声を上げて笑う。

 西郷は言う、毀誉褒貶は雲霞のごとし、我はつねに青天白日の下にあり、と。そういう職が世にあるのかどうかなど問わず、ただ世の人の不便苦役に感を応じ、みずからそれを解くことこそ我が天職となし、数十年がかりにても岩山を穿ちて洞門をくる。これが、仕事というものだ。自分の居場所、自分の仕事を見つけるということは、こういうことだ。