きみたちは私を尊敬しなさい

 /これは、さる東大教授の迷言。劣等感が尊敬を渇望させ、他の尊敬されている者をこき下ろさせる。しかし、こんなことをする者が人に尊敬されるわけがない。自分など尊敬に値しないと心底から思う謙虚さのみが尊敬を集める。/



 私の拙い長編小説でも利用させてもらったセリフだ。昔、東大で学科主任に昇格した教授が私たち学生を集めて最初に言ったのが、これ。あー、きみたち、まずはじめに、きみたちは私のことをよく尊敬しなさい。この先生、研究者としての経歴はずばぬけていたのだが、勉学を五十年以上もやってきて、こんなことを人前で言うようでは、人間としては救いがたいな、と、一同、あきれかえり、いまだに語り継がれている。

 世の中には、人から尊敬されたくて仕方のない人がいる。育ちが悪い、学歴が無い、容貌が醜い、など、自己評価が低く、強烈な劣等感があるのだろう。まあ、女子高生のニキビのようなもので、そんなことは、他人はさして気にもしてないのだが。こういう人物は、地位や名誉、財産や権力など、それに代わるものをどれほど手に入れても、けして劣等感の埋め合わせにはならない。たしかに、社会的に偉くなっても、美男美女になるわけではない。このために、優越感と劣等感がくっついて、ひどく不安定な屈折した性格となる。人がその人を実際に高く評価していても、本音ではおれのことをバカにしているのだろう、という疑念を払拭することができず、人に対してだれかれかまわず攻撃的になる。

 そうでなくとも、人からの尊敬を渇望している者は、おうおうに、人に尊敬されている他の人の欠点をあげつらい、貶めようと必死だ。この世から尊敬というものをすべて消し去ってのみ、自分が人から尊敬されるかのようだ。あんなものは、くだらない。そんなことなら、私もとうにやった。この二つの切り返しを振り回し、他人の頭を踏んづけて、それよりも上に自分を持ち上げようとする。だが、周囲からすれば、ああ、あいつ、またか、ほんとうに最低のやつだな、となり、どんどん悪循環に陥る。

 ナチスの宣伝相ゲッペルスは、幼少より片足が不自由で、現実の軍人としては不適格。ハイデルベルク大学で博士号を取りながらも、どこの銀行や新聞社にも職を得られず、これらを経営するユダヤ人たちに対する憎しみを強め、政治活動に飛び込んだ。戦争のさなかにおいて、彼は兵士たちに叫ぶ。諸君の勇姿奮戦は、後生に人々に尊敬され、映画のスターたちによって演じられることになるだろう。そして、彼自身、自分の人生の役処を演じ切るかのように、自分に陶酔して、ドイツという国を道連れに死んでいく。

 結論を言えば、人に尊敬されたいなどと願っている者が、人から尊敬されることはない。人に尊敬されたいと願うこと自体が、軽蔑に値することだからだ。だいいち、まともな人間であれば、自分が人に尊敬されうる、などとさえ思わないだろう。人が気づいているかどうかはともかく、自分で自分を見れば、マヌケなところばかり。根は小心者で、たいした勇気もない。多少、なにかやり遂げたことがあるとはいえ、それは周囲のおかげでかろうじてなんとかできたにすぎない。こんな自分が人に尊敬されたりするわけがない。

 しかし、奇妙にも、そんなふつうの人のことこそ、周囲は、立派な人物だ、と尊敬するもの。あんな風に、手柄も誇らず、みんなに感謝し、地道に暮らしている。なかなかできることではないよ、と。謙虚は美徳だ。ところが、謙虚を謙虚と思うほど尊大なことはない。ここが難しい。心の底から、本心で自分のほどを思い知ってこそ、謙虚ともなる。

 神仏を前につねに自分を省みて、不出来を畏れ恥じる。ひたすら自分の非力を思い、人々の良きところに学び、そのおかげをありがたく銘じて、日々を送る。人を尊敬しこそすれ、自分に向けば、とんでもない誤解、と謝辞する。それだけのことなのだが、難しい。