逝く人と送る人

/自分の日常の退屈しのぎに、人の死を大騒ぎする人々がいる。彼らは、生きている間は媚びへつらい、死んだとたんにむしり取る。しかし、人は生きて死ぬものであれば、生きていても、死んでいても、なにも変らぬはずだ。/


 世の中には、どういうわけか、死の気配を嗅ぎつけて年寄に取り憑いてくる人々がいる。数十年来、音信不通だった遠縁の親族が突然に病院を見舞ったり、それどころか、まったくの赤の他人が親族のように親切そうに親身に老人の話を聞いたり。なかには、根っから財産目当てということもあろうが、そればかりではないらしい。彼らにとって、人が死ぬということが、退屈な毎日の繰り返しを打ち破る、とても心躍る出来事のようだ。

 たしかに、人が死ねば帰っては来ない。その一瞬を見逃すまいと、日々衰えていく姿をわくわくとしながら眺め、自分も心の底から悲嘆に暮れ、人生のはかなさを感じるのがたまらないらしい。そのうえ、長年に渡って実際に老人の身の回りの世話をし、その勝手わがままに振り回され、ぎりぎりの精神状態に追い込まれている人々をよそに、連中は薄情だと言う老人の愚痴を真に受け、あの人は虐待されているのだ、なんとひどい連中だ、と、あっちこっちに言いふらして、正義の味方を気取ることもできる。

 まして、老人に財産があることがわかれば、止めどなく、みな饒舌になる。亡くなって、その葬儀のかたづけも済まぬうちから、この土地はどうするのだ、あの墓はどうするのだ、と、うるさいこと。近ごろは、かならずしも長男相続でもないものだから、この街に残っていないのなら、私が代わりに墓を守る、というのも出てくる。実際、名門の墓地ともなると、新規に手に入れようと思えば、一区画、墓石込みで永代使用料は一千万円をくだらない。それで、嫁や婿まで、親族会議に割り込んできて、しゃべりまくる。これまでにもらった着物や小物まで、とにかくぜんぶ分け直そう、とか、いずれ土地は売ってカネで分けるから、とりあえず相続税はみんなも払え、とか、ムシのよい話がぼんぼん飛び出す。一方、実際にずっと老人の世話をして疲れ果てていた者は、気が抜けてしまい、同席していても、なんの言葉も出ない。

 カトリック系のホスピスだと、うろたえる親族を前に、死は悲しむことではありません、神様のみもとに参るだけです、などと説教する看護師がいたりする。べつに信心があるわけでもないが、自分も死ぬのであれば、それまでの日々とできるだけ変らぬ毎日を過ごし、夜に、おやすみ、と言うように世を去りたい。そしてまた、人が去るときにも、同様に、昨日と変らぬ毎日を過ごし、いつものように、ただ、おやすみ、と言って、静かにあの世に送りたい。周囲に薄情と言われようと、これは信念の問題だ。むしろ大切なことだからこそ、軽佻浮薄に、無責任な他人に口を挟まれたくない。

 死を騒ぎ立てる人にとってどうかは知らないが、人は、生まれてきたときから、死へ向かって突き進む。この世に生まれるということは、空の高みから、パラシュートも無しに飛び降りたようなものだ。遅かれ早かれ、地面に激突して死ぬ。だから、生まれたことそのものが、死に逝くに等しい。だが、自分にしても、親しい人にしても、死んでなにかが変るわけではない。自分の親しい人々は、自分の心の中に生き続け、自分もまた、自分の親しい人々の思いの中に生き続ける。会って話ができなくなるのが、口惜しいだけ。

 逆に、死を騒ぎ立てる人は、その人が生きている間と、死んでからとでは、一瞬にして態度がころっと変る。言いたくはないが、これほど薄情なことがあろうか。生きている間は媚びへつらい、死んだとたんにむしり取る。だが、真に惜しむなら、生きていても、死んでいても、その人は、なにも変らず、つねに自分とともにいる。