こころざしは心の奥深くに

/勉学を実際に活かしたいと思えば、高い壁が立ちはだかる。ここにおいては、歴史世界の地平に自分を捨て、天命に依拠するほかはない。こころざしは、いまだ至らざるがゆえのものであれば、むしろ心の奥底に秘めてこそ花となる。/



 医者は儲かる、だから、みな医者になりたがるのだ、などと、世間は言う。そういう医師がいないとは言わない。しかし、身近の医師たちや医学の道をこころざす若者たちを見ると、違うと思う。私利私欲でできるような仕事ではない。文字通り不眠不休で最新の学識知見を勉強し続け、人に襲いかかる病や死という運命の氾濫に、全身全霊で立ち向かっている。たしかに収入は多いが、それは、世俗の面倒をカネで免除されている、というだけのこと。みな、そんなものを遊興に使っている暇など、まったくない。仕事の合間に三分でできるカップ麺で空腹をしのぎ、その食事の途中でさえも、呼び出されれば患者のもとへ飛んでいく。それが日常。休息と言えば、せいぜい深夜営業の銭湯くらいか。

 勉学で、ある程度、人より優るようになったときに、まともな若者なら、こう考える。特別に自分だけが頭が良いわけではない。他の人々が他のことをしている間、好きで自分は勉学に励み、幸いに結果が出てきただけだ。サッカーを好きでやっていれば、うまくなるのと同じ。だから、このことを、勉学をやらない人々に誇っても仕方ない。それより、この勉学で得たものを、実際になにかに活かしたい。これもまた、サッカーがうまくなったら、次には、プロになって大きな試合に出てみたい、と願うのと同じだ。

 しかし、ここに高い壁が立ちはだかる。趣味でやっている程度なら、知れたものだが、世に活かすとなると、ケタが違う。猛勉強をしないと、登ることもできない。そして、この絶壁の中腹にまでさしかかると、さらに上を登り続けている人々の姿が見えてくる。ここで、心の根底からの大転換が起こる。これについては、ここでも説明しがたい。医師や学者でも、政治家や財界人でも、スポーツ選手やアーティストでも、プロの世界では、自分というもののあり方がまったく異なる。もはや人と較べての自分ではない。いくら猛勉強をしても、自分を捨て去った歴史世界的な地平に、はるかに大きな自分を天命として再定義しないかぎり、このとてつもない壁はとても乗り越えられない。

 医師を目指す若者が多いのは、そういう畏るべき先人たちに直接に出会えるチャンスが多いからだろう。実際、あの分野は、人物が多い。もちろん、他の分野にも、模範となりうべき立派な巨人はいないではないが、近年は、そうではない者、それどころか、むしろかえって人を堕落させる者もいる。それに、嫉妬深い外野もうるさい。プラトンの洞窟の比喩ではないが、自分自身の力で崖を登り、自分自身の目で山の向こう側を垣間見たことが無い人々に、向こう側の話をしても、ちゃかされるだけだ。望遠鏡で天空の神秘を知ったガリレオは、地球が回ると言っただけで火あぶりにされかかり、地球一周をめざしたコロンブスもまた、海の端から地獄に落ちるぞと笑いものにされた。

 『マタイ伝』に、隠れて祈れ、と言い、『論語』にもまた、行いが言葉に足らざるを恐れるがゆえに、君子は寡黙なり、と言う。だが、十字架をこれみよがしに下げながら、悪行を働いて平然としているクリスチャンは、あまりに多い。手首に数珠を巻きながら、仏法のかけらもない、いかがわしい人も、山のようにいる。
 こころざしもまた、人に見せびらかすようなものではない。むしろ、いまだ至らざるがゆえに、それがこころざしであるならば、いまの至らざる身のあり様こそ、恥じるべきもの。先人を先達として、前だけを見る。ただ天空の神仏と向き合って自分を省みる。現世的な貧富貴賎も、世俗的な毀誉褒貶も、ここでは、なんの意味もなさない。