価値観の合わぬ相手をやりすごすには

/価値観が合わぬ相手では、宗教や政治の話と同様、わかりあえることなどなく、かえってケンカになってしまう。無理に具体的にまとめようとせず、中身の無い抽象的な話でリーダーシップを発揮しているかのように見せかけよう。/



 独身時代の東宮の御発言にも聞こえるように、結婚相手の条件と言えば、かつては「価値観を共有できる人」というのが第一で、まあ、すくなくとも建前としてはそう答えておくのが無難な常識というものだった。ところが、近頃は露骨に、学歴だ、年収だ、家柄だ、と言い、価値観のことなど、話にも上がらぬらしい。

 しかし、『徒然草』で有名な吉田兼好も、価値観の合わぬ人と同席しているときほど、孤独感を味わうことはない、と嘆いている。いっそ、どこがどう違うか、腹を割って話せば、それはそれで慰みにもなるが、価値観が違うとなると、異論の受け止め方も違い、ケンカにもなりかねない。ただ、早く帰ってくれないかな、と願うばかり。

 価値観が違う、というのは、正確には、具体的な物事を抽象的な概念に取り込む感性が違うのだ。たとえば、下世話な私などは、水族館に行き、魚を見ると、どれもこれも活きがいい、刺身にしたらおいしそうだ、と思ってしまう。しかし、飼育員のかたは、回遊魚を水槽で飼うのがいかに難しいか、を熱く語る。それを聞いて、この人たちは、刺身や焼魚、煮魚は食べないのだろうか、などと、ふたたび不謹慎なことばかり考えてしまう。

 旦那が、晩には魚を食べたい、と言い、帰ってみれば、タコ酢の物タコは魚じゃないだろ、と言えば、細君は、でも魚屋で買ったのよ、と言う。ある人々は、クジラは哺乳類だ、と言い、また、ある人々は、食糧資源だ、と言う。どちらがまちがっているか、などと、言い争っても、もともと話がかみ合っていないのだから、ムダ。

 会社の中でも、同じようなことはしばしば起きる。改革を推進しよう、という話にだれも異論はない。しかし、具体的に、何をするのか、を議論する段になると、なに一つまとまらない。総論賛成、各論反対。人によっては、改革ということで、作業の電子効率化を思い浮かべ、また、ある人は、アウトソーシングボトムアップのQC活動を改革と思っている。そして、自分の仕事に関わるとなると、頑迷に抵抗する。

 ここで、会社の未来を真剣に思い、改革案作りに奮闘する、というのは、御立派なことだ。だが、そんなことをすれば、八方から集中砲火を浴びる。それでも強引に改革案をまとめ上げたとしても、トップは、はい、ごくろうさん、と言って書類を受け取るだけで、まず絶対に実行には移さない。意見をまとめるだけで、この始末であれば、ほんとうに実行しようとしたら、どんなひどいことになるか、容易に想像がつくからだ。

 なぜ意見がまとまらないのか、なぜ実行が困難なのか。改革を推進しよう、などという抽象的な話には、もともと異論も無いかわりに、具体的な必要性もない。ある具体的な問題で実際に現場が困っているというのなら、その改革は話が早い。しかし、必要でもないものの必要性をあるかのように錯覚しているから、なにが必要かわからないのだ。

 感性の違うことに触れてはならない。宗教や政治の話と同様、いくら話しても絶対に解決しない。それどころか、いらぬ対立を激化させるだけ。具体的な物事を挙げれば、もめるに決まっている。だから、この問題をやりすごすには、徹頭徹尾、抽象論だけで終わらせること。必要か必要でないか議論することが重要だ、というように。これに反論してくるやつはいない。話に中身はないが、なんとなくリーダーシップを発揮しているかのようにも見える。魚ってすてきだ、クジラは大切だ、業務改革の推進を強く打ち出すべきだ、等々。熱弁を振るえば振るうほど、相手もかってに勘違いして賛同してくれる。