壮年の不徳が晩年の不幸を招く

/老いて世に捨てられるは、かつて力を濫用し、年下たちの恨みを買った因果の応報。自分に力があるうちに、できるだけ多くの若い人々を育て、人間として慕われるようになっていてこそ、後に支えともなってもらえる。/



 惜しまれつつ逝く人もあれば、憎まれながら命をながらう人もある。生老病死、一切皆苦と言うが、老いて病み、世に捨てられて、なお生き続けるほどの苦はあるまい。しかし、それもまた因果応報、自業自得。その人が壮年のときになにをしてきたか、による。

 儒教も、老人を大切にしなさいと教えている、と言う。しかし、かような教えがあるということは、むしろ、現実はそう甘くはない、ということの表われでもある。それどころか、『論語』の原典に当たるなら、四〇、五〇にもなって、名も知られず、人に慕われぬようでは、もはやただのゴクツブシ、とまでに辛辣だ。

 人は、自分が力を持ち、相手が反撃できぬとなれば、無慈悲なまでに残酷となれる。生きながらナマクビを斬り落とすにも躊躇はない。だいいち自分のクビではないのだから、なんの痛みも感じるまい。そして、実際、自分の都合が悪くなると、力任せに多くの弱い人々の仕事を奪い、人生を潰し、社会から放り出してきた。だが、とくに日本の場合、力は、人ではなく組織に付随しているため、かならずしも晩年までは続かないのだ。

 たとえば、テレビの世界。辣腕プロデューサーと全学連仲間だった脚本家や評論家、タレントが番組を裏で支配する。このプロデューサーが出世し、チーフとなり、部長となり、局長となり、取締役となって社内にいるうちは、彼らも大御所として安泰。だが、やがて取締役も退任を強いられる。ここにおいて、彼らに足蹴にされてきた現場の若手プロデューサーは、もはや老脚本家や老評論家、老タレントを使う義理はない。ばっさり斬って、自分と同世代にすべて入れ替えるだろう。会社でも同様。先方の社長と自社の取締役が同世代で懇意である以上、だれも手をつけないが、自社の取締役が退任すれば、むしろ不明朗な融通取引として、ただちにその先方の会社との関係を丸ごと絶つ。

 退社したとたん、年賀状さえ寄こさない、なんと恩知らずなやつだ、などと人を罵る前に、自分が彼らになにをしてきたのか、よく振り返ってみるがよい。彼らは、あなたの肩書、職権にひれ伏し、愛想笑いを浮かべていただけで、あなたを人間として慕っていたわけではない。だから、肩書も職権も無くなれば、こうなるのは当然のこと。そして、今年は、いま肩書を持ち、職権を握る人物に年賀状を送っているだけのことだ。むしろ、これまで奴隷のように尽くしてきたのに、あなたに逆恨みされることの方が心外だろう。

 人はだれしも老いる。力が衰える。若い人の支えを必要とするようになる。このことをわきまえるなら、いま自分に力があるうちに、できるだけ多くの若い人々を育てておくことこそ肝要だ。そうであってこそ、その中に、自分を慕ってくれる変わり者もいるかもしれぬ。文豪ゲーテも、晩年には、政治に疲れ、気力も老いていた。そこに、若きエッカーマンという俊才を得、人生に張りを取り戻し、自分の文化観、教育法を伝え残し、また、最期の最期まで大作『ファウスト』の完成に全力を注ぐことができた。だが、それもこれも、彼が壮年から多くの若者たちに目をかけ、高い人徳を積んできていればこその話。

 下克上を恐れ、力任せに自分が若手を根絶やしにしてきたのでは、老いて弱って、だれか手伝え、などと命じても聞く者はいない。それどころか、弱れば、つねに命を狙われる。それを恐れ続けるくらいなら、とっとと若手に禅譲し、恩を売った方が、どれほどましだったことか。いや、見返りがあろうとなかろうと、どのみち人は老いて死ぬ。そして、人が生きているうちにできることと言えば、ただ次の世代を育てることだけだ。