自縄自縛と自由自律

/毎日がしなければならないことだらけ。だが、じつは、やめても大したことはない。自分で自分を規範に縛り付けるのではなく、自分の望んだ物事として取り返し、望む自分すらも放り出していってこそ、融通無碍の自由が得られる。/



 朝、起きなければならない。会社に行かなければならない。急いで昼を食べなければならない。会議に出なければならない。買い物をして帰らなければならない。明日も早いから、もう寝なければならない。二四時間、しなければならないことばかりがあって、忙しくて仕方がない。

 だが、ちょっと待て。その、しなければならないこと、とやらは、いったいどこにあるのか。イスなら、ここにある、あそこにある、というのも、眼で見てわかる。しかし、しなければならない、というのは、じつは、どこにもないのだ。強いて言えば、自分の中にしかない。この存在(ザイン)と当為(ゾレン)の区別は、法哲学の根本であり、古くはギリシアの自然(フュシス)と規範(ノモス)にまで遡ることができる。

 ためしに、昼を食べなければならない、というのを、止めてみればいい。べつになにも問題は起こりはしない。ただ、道理として、午後に腹が減る。それだけのこと。我々は、しなければならないという思い込み(ドグマ)によって、自分をがんじがらめに縛っている。だが、朝、起きず、ずっと会社に行かなければ、どうなる? まあ、そのうち、クビになるだろう。しかし、これまた、それ以上でも、それ以下でもない。

 しなければならない、と思っていることの多くは、じつは、せいぜい、やらないより、やっておいた方がよい、という程度のものばかりだ。それどころか、やらなくてもいいようなことですら、自分でかってに、しなければならないことの方に紛れ込ませている。早く帰って、あの番組を見ないと、なんて、ほんとうは、まったくどうでもいいこと。この種のどうでもいいことは、「アディアフォラ(無差別)」と言われる。

 ややこしいのは、自分だけでなく、世の中のだれもが、多くのことを、しなければならない、と、かってに思い込んでいるから。たとえば、顧客に会うなら、ネクタイを締めなければならない。だが、これも、昨今の風潮のように、みんなで止めてしまうと、いったいなんだったのか、と思うくらいあっけない。会議に出なければならない、などというのも、どうせ上からの通達だけなのだし、資料は後でももらえるのだから、と、みんながすっぽかすようになれば、なんということはなくなる程度のものだ。

 リバティ、フリーダムの訳語として、福沢諭吉は、「自由」という仏教語を借りて当てた。前者は、たんに拘束からの解放であるのに対し、後者は、自分こそが理由となる、というプロアクティヴな意味合いが強い。西欧の方も、同じころ、ニーチェハイデッガーなどの実存主義者たちが登場し、与えられた物理的な身体存在に甘んじることのない精神的な自己定立を主張した。ここにおいては、しなければならない、のではなく、自分がしたいからするのだ、それによる利益も負担もすべて了解の上で、自分自身がその道を選び取るのだ、とされる。

 しかし、仏教の方は、さらに先を行く。自由として、物事の根拠となっている自分などというものさえも、存在しない。それ自体が、色受想行識の歪みにすぎない、と言う。縁起因果の流転に振り回されるのではなく、その幻を順に滅していってこそ、融通無碍の、真の自由が得られる、と言う。自分でかってに作り上げている自縄自縛の牢獄の幻を知り、余計な重荷にすぎない物事を振り落とす滅因の正しい道を選んで歩けば、その結実までになかなかの時間はかかるにしても、やがては心もだいぶ軽くなる。