会議資料と報告書のムダ

/パソコンの導入とともに、社内向けの会議資料と報告書を作成する仕事が爆発的に増大した。しかし、実務に専念している船と較べると、これは職務分掌や権限委譲の不全によるものであり、大幅に改善の余地がある。/



 働けど、働けど、なお我が仕事、楽にならざり、ぢつとパソコンを見る。石川啄木ではないが、退社時刻になっても終わらぬ積み残しの仕事を前に、こう思う人は多い。企業にパソコンが導入された当初は、これで仕事が楽になる、と言われ、その効果はその高額費用にも見合う、とされた。だが、いま、そんなことを信じている者はいない。

 なにがおかしいのか。退社時刻になっても終わらない、というのが、大きなヒントだ。本来、仕事は、製品を作って、顧客に売るだけのこと。これなら、就業時間内に終わる。残業になるのは、じつは、社内向けの会議資料と報告書の作成。ほうれんそうだかなんだか知らないが、プラン、ドウ、チェックの、プランやチェックに関して、上や周囲と調整しろ、と、うるさい。それで、1つのドウに対し、プランとチェックで、その倍の社内仕事が必要になる。会議を通ってもいないことをかってにやってはならないし、やったことはすべて上司に報告しなければならない。そのうえ、社内仕事のドウに対しても、また倍の社内仕事が生じる。本社支店長会議に持っていく資料作成のための支店内担当者会議のための資料作成、というように。ここにはもはや幾何級数的な絶望感が漂う。

 十八世紀後半の英国、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディの生涯と意見』という長編小説は、完璧な自伝記録を作ろうと悪戦苦闘する暇な紳士のバカ話。ひたすら偏執狂的に、自分の両親のことはもちろん、叔父や産婦人科医のエピソードまで、なんでもかんでも、すべて書いておこうとする。そのうえ、過去のことを書いている間にも、どんどん現在の人生の方が進んでいってしまうのだから、もうどうにもならない。

 だが、いまの会社も同じだ。その異様さは、たとえば、実務のみに専念している船と比較してみればよくわかる。もちろん船にも記録はある。航海日誌。だが、それは、国際的に公的な記録として訂正改竄を防ぐため、いまだにペンで手書き。それも1担当4時間6行幅と決まっている。かつては機関日誌のようなデータ記録簿もあったが、いまはそれこそブラックボックスで自動記録、完全保存されている。

 船の場合、船長ないし当直の航海士が即断即決。いちいち会議など開く必要はない。また、現場も職務分掌が徹底しており、機関長、通信長、客室長、料理長、医師など、そのそれぞれに、ときには船長さえも優越する絶対的な専権事項が与えられ、やはり相談不要で即断即決できる。なにしろ、船は、リアルタイムで前に進み続けているのだ。それも、状況は、時々刻々、変化し続けている。なにか問題を生じても、できるだけ現場で小さく分散処理し、ただでさえ多忙な他のセクションには余計な影響を及ぼさないことの方が重要だ。よほどの事故や事件で、修理やフォローが必要であれば、特別な報告書を作るが、そうでもなければ、終わったことは終わったこと。むしろ、すぐにまた次の航海が控えている。だから、しっかりと休養するのも仕事のうち。

 大男、総身に知恵が回りかね、などと、昔から揶揄するが、企業の巨大化に伴って、どこがなにをやっているのか、わかりにくくなったのも事実だ。しかし、どこがなにをやっていようと、きちんと権限委譲して現場に任せれば済む話。また、記録のためだけの記録なら、作為の余地のある報告書ではなく、それこそパソコンで自動記録すればよい。いずれにせよ、社内仕事は、まったくカネにならない。従業員は、製品や顧客のために存在するのであって、自力で現場の様子も掌握できぬ上司たちのための介護係ではない。