堅物の父はキュウリが嫌い


/なんでも深く探究していてこそ天下国家も論じられる、と言う朱子学に対し、陽明学は、どうでもいいことへの関心こそが人間をダメにする、と主張した。情報社会の雑学蘊蓄にかまけていれば、本人こそがどうでもいい奴になる。/



 戦乱の世を経て、中国や朝鮮、そして日本では朱子学が官学とされ、為政をつかさどる大名から藩士まで、さらには民間の大店の店主や村々の名主まで、これを学んだ。ようするに、力ずくで無理をするのではなく、物事の道理を学んで無理なく事を運べ、と言うこと。たとえば、城普請などに農民をかり出すなら、田植えや稲刈りの時期は避ける、というように。明治時代の和魂洋才も、戦後の科学的経営も、結局、この延長線上にある。

 朱子は、12世紀後半の中国の儒学者。それまで儒学と言えば、紀元前500年頃の孔子を敬い、その孔子が尊重した「五経」(詩・書・礼・楽・史)を学ぶ、という程度のものだった。だが、孔子は、より古い道教易経も重視しており、その後の道教の隆盛を踏まえ、朱子は、道教形而上学儒学を理解する、という強引な展開を行った。ここにおいて、その解釈の対象となったのが、孔子の『論語』、孟子の『孟子(もうじ)』、そして、曽子の作とされる『大学』、孔子の実子の子思の作とされる『中庸』の「四書」。

 なかでも『大学』は、孔子一派の勉学指針として重視された。そこには、格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下、の八条目が掲げられており、朱子は、物事と格闘し、知識に到達することが大切だ、と説き、これを「窮理」(きゅうり、理を究める)と呼んだ。そして、正しい知識があってこそ、正しい行動もできるようになる、と言った。士大夫(しだいふ)と呼ばれた知識人官僚たちは、当初は、天下国家の進歩改善に高いこころざしを持っていたが、しだいに、ただ博識をもてあそぶようになり、しまいには、知識を悪用して特権を独占するだけの郷紳(きょうしん)に変質していってしまう。

 1500年頃、王陽明が出てきて、朱子学に異を唱える。どう考えても、道教かぶれの朱子は、原文を理屈で勝手にねじ曲げすぎだ。原文どおりに読むなら、身と心は表裏一体、そして、心において意欲と知識と対象は同一、と考えた。つまり、物事は自分の外にあるのではなく、自分の中にこそあり、正しい対象を思うのでなければ、正しい知識も、正しい意欲もありえない、と言い、正しい心の知と正しい身の行いは一致する、と主張した。

 朱子学と決定的に異なるのは、最初の格物だ。朱子はこれを窮理と言い、なんでもかんでも取り組んでみよと勧めたが、陽明は、これをあくまで、思いの対象を正す、区別することだ、として、むしろ限定せよ、と言う。経営で言えば、多角化と本業回帰のようなもの。個人の生活で言えば、博覧強記の雑学蘊蓄を知っているだけ、と、余計なことには関心を持たず、知るべきことを知り、やるべきことをやる生き方の違いか。

 世は情報社会と言い、あちこちのはやりものの聞きかじりを右から左に流して、自分の知を誇れるかのように思い誤っている人は多い。だが、情報貧乏で、忙しいだけ忙しく、知識が行動に実る間もない。生きている間は、いかにも八面六臂に活躍しているかのように見えるが、死んでみたら、結局、なにをした人でもなく、すぐに忘れられる。というより、もともとべつに世に必要でもなかった暇つぶしのおもちゃ。

 物事を格付けする。大切な人物と、どうでもいい奴。大切な仕事と、どうでもいい用。大切な経験と、どうでもいい話。きちんと分別してこそ、正しい関心、正しい知識、正しい意欲が一致し、正しい心の思いと正しい身の行いも一致する。なんでもなんとか、では、なんにもならない。まして、どうでもいい関心、どうでもいい知識、どうでもいい意欲ばかりで、大したこともできないのでは、本人もまた、この世のどうでもいい奴だ。