頂上のみが山にはあらず

/とにかく頂上へ、という出世主義の人々は多い。だが、頂上とは、行き止まりのことだ。世の中に山はいくらでもある。登ったり、下ったり、その途中の出会いを楽しみながら、自分に合った山道を行くことこそが最上だ。/


 以前、センター入試は共通一次と呼ばれ、1000点満点だった。東大に入ってすぐ、同級生たちと冗談半分で何点だったかが話題になった。そのとき、その中の一人が、こう言った。いやぁ、自分もなかなか良くできたかなぁと思って、新聞を見たんですが、最高得点が987点って、自分の自己採点と同じなんですよ。やはり世の中にできる人は、ほかにいくらでもいるものですねぇ。慢心してはいけないなぁと思いましたよ。

 だれもが、しばらく固まった。あの試験で987点をとる人間が世の中に何人もいるものか。これは、婉曲的な自慢か嫌みなのか。みんな、黙って彼の顔をじっと見続ける。すこしも笑っていない。本気らしい。本気で自分のほかにも最高得点を叩き出したやつがいたと思っているらしい。新聞に出ているのが自分自身だとは気づいていないらしい。

 数分たってようやく、いや、そうだよね、まったくだ。慢心してはいけないよ、ということで、彼の点数がどうこうではなく、みんな、むしろ彼のマヌケぐあいを尊敬し、心から見習わなければ、と誓った。彼こそ、まさに、自分のほかにいくらでもいる、世の中の真にできる人として、我々の目の前にほんとうにそこにいたからだ。

 世界観の問題だ。了見の狭い人々は、麓から頂上を眺め、世の中が富士山のような形になっていると思っている。そして、南側から登っても、北側から登っても、頂上は一つだ、と思っている。だから、とにかく上へ、上へ、頂上へ、と言う。ところが、実際にある程度、自分で登ったことのある人は、みな知っている、長い山道の途中には上りも下りもあり、雲海の遙か向こうには、まったく別の山々がいくらでもある、ということを。

 ちょっと見栄えのよい一つ山の頂きを極め、そこに居座り、下から来る新参者たちに御託を述べていれば、それはそれで一生暮らしていけるだろう。しかし、その人も、そこからの眺めで、ほんとうはそこが大した山でもなく、それどころか、むしろ引き返しもできない行き止まりであるのを知っているのだから、本心はつねにうしろめたかろう。

 一方、ある人々は、ある程度、山の上の方まで登って眺めを楽しむと、べつに頂上を極めるでもなく、さっさと降りて来てしまう。聞けば、たしかにいい山だ、だが、あんな風雨のきついところは、後から来る人々を蹴落としてまで、無理にいつまでも居座るところではあるまい、それより自分はそこでもっと遠くにもっと別の目的地を見つけたのだ、では急ぐので、と早々に立ち去って、野に下って行ってしまう。世人は、おやまあ、ただの負け犬か、と思うのだが、しばらくして気づくと、また別の山に登っていたりする。

 自分で岩土を集め、山を築いたオーナー企業のトップは前者の典型だが、旅芸人はもちろん、経営者や官僚、医者や学者、宗教家や行商人など、昔から遍歴に生きる仕事も世に多い。もとよりどの山も、どれひとつ自分のものなどではなく、また、その道中で、自分などより山守にふさわしい人々にも、多く出会っている。

 競争に打ち勝ち、有名大学や大企業に入った、と、人に自慢する者がいるが、そこには優秀な同期がいくらでもいる。無理に留まれば、運不運でむしろ不遇をかこつこともある。頂点であろうと、中腹であろうと、そしてまた、湿原であろうと、自分が山を楽しみ、道を行くなら、多くの景色、多くの草花、多くの人々との出会いがある。このおもしろさは、実際に登って歩いてみぬ人には語って伝えられるものではあるまい。もとより勉強や仕事は、人に見せびらかすものではない。自分に合った山々の道こそ、最上だ。