子供を見れば親が見える

/日本より米国の方が家族を仕事の表舞台にもよく登場させる。というのも、子供を見れば、その人の人事指導能力が浮き彫りになるからだ。/


 ビジネスライクと思われている米国の方が、大統領のファーストレディのように、仕事の表舞台に家族をよく登場させる。上司ともなれば、ホームパーティを開き、部下たちを家族ぐるみで招くのは、むしろ当然のことだ。しかし、それは米国のこと。タバコや酒を止められないとか、太っているとかというだけで、自己管理能力が欠ける、それゆえ、重責にも不向きだ、と、かんたんにクビになるような国だ。家族や家庭のようす次第では、人事評価を大きく下げてしまう。そしてまた、逆に、家族次第で出世もする。

 しかし、実際、この方法は、存外、外れてはいないように思える。以前、あるところに、いかにも仕事ができそうな管理職の人がいて、上層でのウケも良く、重役候補と見なされていた。ところが、ウワサによれば、その子供は、引きこもりで家庭内暴力を繰り返し、夜中にものを投げつけたり、母親の悲鳴が聞こえたり、ガラスが割れたりで、近所でも評判。にもかかわらず、その人は、父親として、仕事を口実にほったらかし。とはいえ、その仕事というのも、部下たちの手柄を奪ったものばかり。そのうえ、部下たちの悪口をあちこちに言いふらし、自分がいかにがんばっているか、自慢して歩くだけ。口上手なので、上もすっかり騙されて、さらに出世したが、ついには、実の息子に金属バットで顔面を殴打され、流血騒ぎになって、とうとう入院してしまった。やっぱりね、ということで、部下のだれひとり、見舞いにも行かない。

 まあ、男の子、女の子、本人の性格もいろいろだろうが、おもちゃを足で踏みつけたり、床に投げつけたりしている子供の親にロクなものはいまい。まして、それが人の家となると、いよいよどうかと思う。公共図書館の絵本に、チョコレートのシミがついていたりすると、文字通り、親の顔が見てみたいもの。もちろん、なんにしても、しょせん子供のやることだから、他人がその子をしかってどうなるものでもあるまい。だが、だからといって、それで親まで責任がなくなるわけではない。

 一方、こんにちは、さようなら、ありがとう、ごめんなさい、いただきます、ごちそうさま、と、言える子。靴やスリッパをそろえられる子。本やおもちゃをきちんと整理して片付けられる子。こういうことは、一朝一夕に、言うだけで聞くようになることでもあるまい。日々、根気よく、機会ごとに子供の目線にまで降りて諭して、それを何遍も繰り返していてこそ、ようやく身につく生活習慣だ。

 人間は外面の体裁を取り繕う。まして上司に対してはそうだ。管理者としてどうか、ということで、部下の部下に聞いても、直属上司に遠慮し、やはり体裁の良い世辞しか言わないだろう。しかし、その人物が管理者として職場で部下たちにどんな指導をしているかは、その人物の子供たちを見れば、これほど透けて見えることはあるまい。小学校ではないのだから、家庭訪問というわけにもいくまいが、良いウワサ、悪いウワサは、そこはかとなく伝わってくる。

 なによりかわいそうなのは、外面ばかりの親の子供だ。小さいうちにまともな生活習慣を教えてもらえなかった子は、勉強でも、仕事でも、なにをやってもうまくはいかない。だが、なぜうまくいかないのか、自分ではわからない。昨今、そういう若者たちをよく見かける。かといって、いまさらヤクザの親分にしつけてもらうといわけにもいくまい。親がダメなら、自分で気づき、今からでも自分で自分をしつけられるとよいのだが。