仕分けの残りこそ捨てる

/要らないものを捨てると言うが、物事は有機的につながっており、残りもダメになる。だから、むしろ仕分けして残ったものの方を捨ててしまった方が、要らなかったはずのものの方に新たな命を吹き込むこともできる。/


 合理化、リストラ(再構築)、仕分け。なんと呼んでもよいが、ようするに、はびこる雑草を刈り取り、コケを削ぎ落とすことのようだ。長年、会社や仕事をやっていれば、たしかに、そこにいろいろ雑草やコケも生えてくるだろう。こういうのを、きれいさっぱり取り去って、新品のような機能性を取り戻そう、ということらしい。

 ウソかホントウか知らないが、侍従が皇居の草刈りをしようとしていたところ、珍しく昭和天皇が御不興を召され、「雑草」などという草はない、とおっしゃったとか。いや、天皇陛下が特別なのではない。歴史ある庭園の庭師でも、せっかくようやく固い岩の上に生えてきたコケを削ぎ落としてしまうバカはいない。

 米国の絵本作家、ターシャ・テューダーは、ガーデニングでも有名だが、その庭は、すべてが有機的に一体となっているからこそ、それぞれの季節にそれぞれの草花が美しく咲き誇る。『荘子』にも混沌の話があるが、混沌に目鼻をつけたら、死んでしまったと言う。一人の人間はもちろん、庭や町、そして、会社もまた、さまざまな部分によってこそ、一つのものになっている。それを、ここは役に立つ、ここは役に立たない、と、単純に切り分けていって、何かをきれいに生かし残せるなどということはない。

 どうしてもどうにか庭を若返らせたいというのなら、むしろ茂りすぎた古い木々を幹から切り倒し、若木に植え換え、光を明るく庭全体にさし込ませた方がよい。山の中なら千年杉もいいが、庭の真ん中にそんなうっそうとしたものが伸びたら、庭中のなにもかもから太陽と栄養を奪い、庭そのものを殺してしまう。雑木に語らせるから、雑草が雑草なのであり、雑草に言わせれば、雑木の方が雑木だ。

 禅問答で、米と砂の混ざったものをいかにするか、砂を取って米を残すか、米を取って砂を残すか、という問いがある。料理係の僧は、砂も米もともに捨てる、と答えた。では、何を喰ったらいいのか、と問われると、盆をひっくり返して、寺を出て行ってしまった。喰わせてもらえるのが当然などと思い込んでいるから、なんとかしろ、などという問いも出てきてしまう。孟子も、居は気を移す、と言う。ごちゃごちゃ仕分けするくらいなら、全部をまとめて捨てて、引っ越し、全部を新たに揃え直した方が話が早い。

 実際、ある巨大スーパーは、切り捨てられた人々の方がそれぞれに新会社を興し、本体の方が芯から腐って倒れた。いったんすべてを捨て去り、ゼロからやりなおしてもかまわないというくらいの気骨のある人々だけが残るのであれば、再生もなんとかなるかもしれないが、自分だけはなんとかなどという姑息な保身者ばかりが残ったのでは、どうしようもない。だいいち、彼らこそ、社風を淀ませ、人事を腐らせた元凶ではないか。そういう連中がもはや広く深く今の庭に根を張りすぎて、切り倒すこともできない、というなら、いっそ、彼らをその古い庭に置き去りにして、別の新しい庭に有為の人々だけが集まり直す方法を考えた方が賢明ではないか。

 幕末にもなって無理に仕官を望んだ新撰組の面々は、滅びる幕府に最後までへばりつき、いいように利用され、まとめて始末されてしまった。一方、藩に見切りをつけ、集まってきた連中は、自分たちで近代的な会社を興し、新政府とつながって、新たな財閥を築く。現代もまた、資本の支払信用を核とする会社が捨てられ、まったく新たな形態の生活経営共同体が生まれるのは確実だろう。ただ、それが何であるか、いまだ不明だ。