自分殺しの亡霊におびえる人々

/自分があきらめた夢を実現している人を、人は激しく嫉妬し攻撃する。もしくは、熱烈なファンになって、いまの自分をまた殺してしまう。だが、かなわなかった夢を持っていた自分を受け入れてこそ、自分を取り戻すこともできる。/


 どこで私のキャリアを見たのか、まったくの初対面で、いきなりケンカをふっかけられることがよくある。それも、かなりズレている。ふん、東大なんて、大したことはないよ、東大卒の連中はよく知っているけれどね、みんなロクなもんじゃないな。そんなことを言われても、あんな大きな大学のことなど、むしろ私の方がよく知らない。せいぜい自分がいたころの学科の様子と、前後の仲間の昨今くらいだ。

 芸術系も似たようなものらしい。人が一生懸命に努力して勉強している横から、べつにその人に相談したわけでもないのに、芸術なんかでメシが食えるわけがない、カネのムダだ、絶対に後悔するぞ、云々、と、押しつけがましく口を挟んできて、つきまとう人々がいる。いったい何がしたいのか。おそらく、まさにその人のジャマをして、食えなくして、後悔することを現実に立証したいのだろう。

 こういう人たちこそ、きっとほんとうは自分が死ぬほど東大に入りたかった、芸術を職業にしてみたかったのだろう。医師、弁護士、芸能人、小説家、経営者、そして、結婚や家庭。だが、彼らは、なんらかの事情で、夢がかなわず、あきらめた。あきらめる、ということは、それを実現して生きる自分を、自分で自分の中から殺し去ることだ。

 ところが、世の中には、その、自分が殺したはずの自分の人生を幸せに生きている人が現実にいる。自分が殺したはず自分が、生きて立って自分の前に出てくる。そういう相手に出会ったとたん、その人は、過去の自分殺しの罪悪感に責めさいなまれ、どうにかその相手を、この世にありえないものとして再び殺して葬り去ろうとする。この自己投影的な嫉妬、自分殺しの亡霊を、ユンクの心理学では「シャドウ(影)」と呼ぶ。

 だが、その人をどうにも潰すことができない、となると、このメカニズムは、心の平安を保つため、180度反転する。芸能人やスター選手、政治家や経営者の熱狂的なファンとなって、自分の夢を託し、自分のことのようにその人の関連グッズを買い集め、選手と同じ背番号のシャツを着て、全身全霊を打ち込んで応援する。ここにおいては、自分の方が影だ。いまの自分の方をつまらないものとして殺し去り、そのアイドルの人生を自分のものにする。これが行き過ぎて、狂気の領域にまで踏み込んでしまうと、そのアイドルがニセモノで、自分こそがそのホンモノだ、と思い込み、その人に銃弾を撃ち込む。

 考えてみれば、人間は、生まれてすぐには、いろいろな可能性があった。宇宙飛行士になるかもしれないし、医者になるかもしれない。大勢の子供に恵まれるかも知れないし、食い詰めて野垂れ死ぬかもしれない。しかし、生きていく中で、さまざまに環境に強いられつつも、なんとか自分で良い方向性を選び採っていこうとする。

 自己実現とは、自分になることだ。どこかのだれかのようになりたいと努め、その希望がかなったとしても、それでは、結局、その人のニセモノにしかならない。芸能人をまねた髪型服装、評論家受け売りの知ったかぶり、絵に描いたような幸せ家族の見栄。そんなことをして、いまここにいる自分をまた殺せば、いよいよ自分自身にはなれなくなる。

 夢は、実現するかどうかを問わない。たとえ実現できなかったとしても、そういう夢を持っていた自分こそが、まさに自分そのものだ。今のこの自分を受け入れ、まだ残っている可能性を生かして、そこから新たな夢を紡ぎ出していってこそ、これが自分の人生だと言えるところにたどりつくこともできる。これこそが、ニーチェの言う「運命愛」。