モノ作りではなく人間が相手

/使う人を忘れてモノだけ作ったから、人に売れなくなった。人間は仕事で生きる。仕事を殺せば、自分が死ぬ。客の顔を思い浮かべ、日々、今日一度限りのライヴと思って仕事に取り組もう。/


 以前、我らが東大の恩師の講義が有線放送でも有名らしい、と、仲間内で話題になった。それは通信大学講座用に録音されたもの。だが、それは、なんと「羊の数え上げ」ともに《睡眠》のジャンルに入れられていたのだ。さもありなん、ただ一人で延々とボソボソしゃべっているだけ。当時にしても、この恐るべき睡魔の呪詛(じゅそ)に打ち勝ち、最後までまで起きていられる学生の方がまれだった。

 いまでも、あちこちの大学には、使い古しの講義ノートを一人で勝手に読み上げるだけで、出席も取らず、学生の方を振り返ることすらない、という教員も少なくないらしい。どうせわからんのだろう、義務だから仕方なく来てやっているのだ、おまえらとは関わりあいたくない、というところか。だが、学生から見れば、こういう教員の方が死人だ。

 近頃、モノ作り、モノ作り、と、年寄連中がうるさいが、そんなことばかり言っていたから、モノ作りもダメになった。どんな仕事でも、仕事は、人を相手にするものだ。どんなモノでも、それを使う人のために作るものだ。使う人のことを忘れ、かってにモノだけどんどん作ったから、要らないものばかりができて、人に売れなくなったのだ。

 どんな仕事もライヴだ。暑い日と、雨の日と、自分も、お客も、同じではありえない。この暑い日に来てくれるお客のために作ろう、という思いで作るのと、この雨の中に来てくれるお客のために作ろう、という思いで作るのでは、たとえ同じモノを作るのでも、自分の仕事として違う。昨日の客が今日もまた来たとして、昨日来た客は、昨日来た客に過ぎなかったが、今日もまた来た客は、もはや昨日来た客ではなく、まさに今日もまた来てくれた客に変ったのだ。そこに憶えている顔を見れば、毎度ありがとうございます、という決まり文句と言うにも、自分の思いが違う。

 我々は生きている。生きて仕事をしている。自動製造機や自動販売機ではないのだ。そして、客もまた、現金支払機などではない。どちらにも心がある。思いがある。同じ日、同じ時間に、目を合わせる。電話を通じて、声を交わす。メールを送り、返事を待っている。自分の作ったものを使う人がいて、自分の使うものを作った人がいる。このつながりは、ときには数十年もの時を越える。我々は数百年も前の人の書いた本を読み、数十年も前の人が開いた道を歩く。そしてまた、我々が語る言葉、作ったものが、数十年、数百年後の人々へと贈り伝えられることもある。

 我々は生きるために働く。働いてこそ、自分が生きていることを確かめることができる。仕事を失った人、終えた人のみじめさは、カネの無さにもまして、この世から人間の存在そのものが消し去られたかのような境遇だろう。だから、客に頭を下げるのは、カネをくれたからではない。そこに自分が、そして、自分たちが生きる機会をその人が与えてくれたからだ。そして、またいつか出会えれば、と、心から願うからだ。

 仕事を殺すか、生かすかは、自分次第。手を抜いて、相手を思わず、仕事を殺せば、自分も死ぬ。サカナが水を泳いで生きるように、人間は仕事に汗してこそ生きがいを得る。もちろん、この世の中、おもしろい、楽な仕事など、多くはあるまい。だが、どんな仕事であれ、その向こうにいる人を思えばこそ、仕事を通じ、その人に声をかけようとしている自分も生きる。今日の空、いまの風。世間の話題、時代の流れ。いまこの場は、二つと無い。どんな仕事、どんな商売も、客の顔を思うライヴであってこそ、心に響く。