コンフィデンシャリティ

/互いに信じあうということは、他人に依存することではなく、それぞれの自分自身をさらに強くすることによってこそ成り立っている。自分に妥協してしまうような相手では、信じあうには足らない。/


 メロスは走った。友に信じられているがゆえに。そしてまた、次々と無実の人を疑って殺(あや)めていく暴王のねじけた心を、二人の硬い友情で打ち負かすために。

 学生時代、老舗の外資コンサルタント会社のお手伝いをさせていただいた折、先輩諸氏から真っ先に教え込まれたのが、コンフィデンシャリティ。守秘義務、と訳しただけでは、もの足りない。フィドは、信じること。コンフィデンシャリティは、互いに信じあうこと。どんなにたがいに離れ離れであっても、同じ目標の実現へ向け、協力して突き進んでいくこと。

 浮気しても、バレなければ問題ない、などという人もいる。だが、バレるかどうか、の問題ではあるまい。実際に浮気したかどうか、の問題ですらない。バレなければ問題ない、などと思った時点で、すでに完全に相手の信頼を裏切っているのだ。同様に、守れる当ても立っていないのに約束をするなら、約束をすること自体が、相手を裏切ることになる。結果として最終的に約束に違わなかったとしても、そんなことは、関係がない。約束は、努力する、とは、わけが違うのだ。

 とくに情報に関するコンフィデンシャリティは厳しい。王様の耳はロバの耳、のように、人の知らない秘密を知っていると、人に言って、自分の知を誇りたくたくなるもの。だが、夫婦や家族、恋人や親友、同僚や同業者。これらは、秘密の共有という壁によって関係を保っている。どうでもいいようなことでも、自分たちしか知らない、ということが大切なのだ。それこそが「われわれ」という枠を形作っている。もしその内輪の話を軽々しく外に語れば、壁は崩れ、逆に聞かされた者を問題に巻き込む。人の相談に乗れば、相談に乗った者まで当事者にされる。また、外と語った者は、もはや外の人間として排除される。スポーツ新聞などで匿名の自称関係者が訳知り顔でペラペラとしゃべっているが、それはまったくのニセモノか、ただのバカだ。まして、医師や弁護士、コンサルタントが、自慢気に外でクライアントの名をふれ回るようでは、プロとしての資質が疑わしい。

 ところが、世の中には、最初から計画ずくで、守る気のない約束をする人もいる。いわゆる「ハシゴを外す」という手。相手は、騙されているとも知らず、信頼に応えようと努力し、その努力のせいで、危難に陥り、文句を言う余力も奪われる。食い詰め浪人たちに対し、悪代官が、だれそれを斬ったら藩に取り立てやらぬでもないぞ、と言い、実行したとたん、下手人として始末する、というのが、これだ。親会社から製品増産の話を聞かされ、無理をして設備投資をしたら、そんな契約はしてはいない、だが、どうしてもと言うのなら、と言って、部品を安値で買い叩くのも、下請けイジメの常套手段。

 だが、もっとタチの悪いのもいる。人のいい人。約束したときは百パーセントの本気なのだが、その後に別の人に会うと、その人にもいい顔をして、すぐ方針転換。それで、ごめんね、と言われては、ばかばかしくて怒る気にもなれない。タコやクラゲのようなやつに、まっすぐ立っていろ、と言っても、しょせん無理な話なのだろう。

 セリヌンティウスはメロスだからこそ喜んで身代わりとなり、メロスもまたセリヌンティウスだからこそ絶対に戻ると必死になった。コンフィデンシャリティは、相手を選ぶ。それは、たがいの信頼によって、それぞれの自分自身をさらに強くするためのものだからだ。口の軽いやつ、策を弄するやつ、骨の無いやつには、もとより用はない。