底抜け壺に水を満たす

        /お客と出会えなければ、なにも始まらない。にもかかわらず、自分の利益になるのでなければ、会ってもムダだ、と、高い壁の壺の中に籠もってしまっているのは、あなたの方ではないか。/

 よく知られている禅の公案のひとつ。若僧が寺に入門を申し出ると、貫首がいきなり壺を投げて寄こした。これを水でいっぱいにしてみろ。ところが、見れば、この壺は底に大きな穴が開いている。さて、どうしたものか。

 ニューヨークの街のまんなかに、庶民派の巨大百貨店メイシーズがある。映画『三四丁目の奇跡』の舞台だ。サンタを自称する変な老人が現れ、クリスマスプレゼントのお願いに子供たちがやってくると、そのおもちゃなら、この百貨店よりあっちの店の方が安い、とか、ここは売り切れだが、あそこの店にならまだ残っていたはずだ、ここで無理に別のおもちゃを買うことはない、とか、なんでも親に教えてしまう。社内ではすぐに大問題になったが、お客たちが、まずメイシーズに行って相談してみよう、と、続々と詰めかけて来て、気がついてみれば百貨店は大繁盛。

 しかし、これは実話だ。一八六六年、メイシーズは、世界で最初に女性を会社の重役に抜擢した。マーガレット・ゲッチェル。「どこでも行こう。なんでもしよう。けしてお客さまを感動させそこなうな。」お客と出会えなければ、なにも始まらない。そして、店がお客で満たされれば、儲けは後からついてくる。『フリー』の商売なんて、昔から基本中の基本の経営哲学なのだ。

 かつて二つの商社がアフリカに乗り込んだ。一方は、本社にこう電報を送った。ダメだ、ここではだれも靴を履かない。だが、もう一方は、こう打った。どんどん靴を送れ。ここではまだだれも靴を履いていない。同じことも見方次第。それで、コップに水が半分しかない、いや、半分もある。前者はネガティブで悲観的。後者は、ポジティヴで楽観的。前者はダメで、後者でなければならない、などと言う人がいる。だが、それらは、どのみちコップを基準にした話だ。多いか、少ないか、など、バケツに入れるか、おちょこで汲むかで、話は大きく変ってくる。大切なのは、なんにしても、そこにはちゃんと水がある、ということ。その水を大切にすることだ。

 コップだとか、壺だとか、自分でかってに大きさを定めてあれこれ見るから、多いとか、少ないとか、ややこしくなる。自分でかってに自分の形を思い描いて、それを押し通そうとするから、いまの時代や社会にうまくはまらない。逆に、水の方は、丸い壺でも、四角い枡でも、どんな形にでも自由自在。よけいなこだわりを捨て、必要に応じて、必要な形になれば、そこにぴったりと収まる。

 先の若僧、山門の前で底抜け壺を眺め、何も食べず、何も飲まず、三日も四日も考え込んでいる。五日目、屈強な先輩僧侶が出てきて、壺を抱えた若僧をひっつかまえると、そのまま寺の前の大きな淵に投げ込んだ。若僧とともに底抜け壺はゴボゴボと沈み、その中は水で満たされた。それで、若僧は悟った。

 語学の勉強でもそうだ。いくら本で読んでも、覚えた端から忘れてしまう。だったら、その国に行って、自分自身をどっぷりと浸け込んでしまえばいい。自分の得になるかどうか。そういう高い壁の壺に籠もり、お客との出会いを避けているのは、自分の方だ。小さな電器屋、小さな食品屋、小さな自動車屋などでも、ヨロズ御用聞きを兼ね、街と人に融け込んで、なんとなくうまくやっているところも多い。底抜けであってこそ、人々に愛され、暮らしていける程度の幸せは得られる。