内部留保の爆弾

        /カネは景品の交換券のようなもの。そんなものを貯め込んで、身の程知らずのレバレッジをかけると、かならず失敗する。それより、世間の御愛顧の方が大切だ。/


 経済学の教科書だと、貨幣経済より前、取引の初めは物々交換だった、などと書いてある。だが、歴史学的にはそうではない。貨幣以前には、何が等価か、を決める方法すらなかったのだから。実際は、村の中での困ったときの助け合い。足りない人に、余裕のある人が手を貸す。貨幣以前では、主たる財産は穀物であり、いま、余裕がある、といっても、やがて腐って無くなってしまう。そして、情けは人の為ならず、と言うように、人生には浮沈もある以上、余裕のあるときに人を助けておくことこそが、足りないときに人に助けてもらうための、最善の社会的な「蓄財」の方法でもあった。

 だが、この貸し借りは、長期で帳尻を合わせられる村の中でだけのことで、外との単発の貿易は難しい。ここに成立するのが「神殿経済」。たとえば、最高の大魚が捕れたら、これを神殿に奉納しにいく。すると、そこには、なぜか最高の材木が置いてあり、これを神様からの賜物として村に持ち帰る。そして、また別の村が、最高の工芸品を納めに行くと、そこには、最高の大魚が置いてある。半端な質のものを納めたら、神罰が下る。

 しかし、神殿で何を賜るかは運任せで、ほしいものが手に入るわけではない。そこで、神殿に神官が常駐して、神様へ願いごとの取次をするようになる。これが「朝貢経済」。材木がほしいのです、と言うと、神官王が、よしなに神に奏上申したてまつらう、と答え、材木の取れる村に使いを送り、勅命ぢゃ、材木を奉納せよ、と告げ、ときに汝ら、願いごとはあるか、と尋ねる。そして、それに従って、次の使いを出す。

 ところが、いえ、いまはとくに願いはございませぬ、というような村も出てくる。それに、神官王も、いちいち自分であちこちの村に使いを出すのが面倒だ。そこで、物資を徴発した村の願いごとを聞くかわりに、自分の顔の絵を描いた純金の御札を渡す。これを持参したる者の願いは、神官王たるワシの命令も同じことぢゃ、よろしく従え、と記して。ところが、この御札は、王のところに回収されることなく、次々と村々に渡って、世の中をグルグル回り始める。これが「貨幣経済」の起源。

 この意味で、カネは依然として一種の社会的債権にすぎない。財産の可能性であって、実体財産ではない。そんな景品の交換券など、とっとと景品に交換した方がいい。カネは、穀物と違って腐らないことにはなっているが、歴史的に見れば、およそ百年に一度程度、多くの国の通貨が実質的にデフォルトになっているのだ。だいいち、人間の根本資本である命そのものが、絶対的に摩滅損耗していくのだから、その付帯資産など、いくら有っても、すべて期限切れになる。それは、なじみのペットショップのトリミング無料券がいくら無期限有効であっても、肝心の愛犬そのものが死んでしまえば、そんな券はなんの意味も無くなるのと同じことだ。

 昔は、財産を貯め込んでばかりいると、焼討ちにあった。フランス王室も、飢饉穀物蔵を開かなかったばかりに、ギロチンで一族皆殺しにされた。今も、過大な内部留保をテコに身の程知らずのムチャをして、自滅的に潰れる個人や会社は後を絶たない。

 カエサルのものはカエサルに。どうせカネなど、いっとき、国が貸してくれただけ。余裕があれば、祭かなにかで花火でも奉納し、みんなに喜び楽しんでもらってこそ、次の一年の商売もまた好評というもの。脂肪と同様、ムダにカネを貯め込まず、新陳代謝を活発にして、世間の御愛顧で健全に長続きさせるのが、古来からの経営の知恵だ。