ギュゲース王の指輪と悪人の露呈

        /悪人は、自分の姿を隠す。だが、まさにそのことによって、悪人である自分を露呈させてしまう。/


 トルコは昔から大地震が多い。紀元前七一六年頃、羊飼のギュゲースは、大地震の地割れの中で馬の形をした青銅の棺を見つけ、その中に葬られていた巨神族の遺体の手から一つの指輪を抜き取った。これが、後のワグナーの『ニーベルンクの指輪』やトールキンの『指輪物語』の元の話。この指輪は、その宝石を手の内側に回すと、自分の姿が消えて見えなくなる。ギュゲースは、これを使って秘かに王妃を通じ、国王を殺し、自分が新たに王となって、国をまるごと奪い取ってしまった。

 時がたって、ギリシア時代。あの「ギュゲース王の指輪」さえあったら、だれでも、どんな悪事でもできてしまうだろう、と人々は論じた。しかし、哲人ソクラテースは、いや、あの指輪は呪われている。見えなくなった人間は背骨から腐っていくのだ。にもかかわらず、姿が見えないから、自分で鏡でその歪みに気づくこともできない、と答えた。

 さる米国大統領が国際会議でイタリアを訪れた際、お忍びで部下たちと評判のレストランに寄った。では、そろそろ会計を、という段になったが、困ったことに、だれも財布を持ってきていない。やむなく大統領は支配人を呼び、私はMMといいます、代金は後でかならず届けます、と詫びた。支配人は、ええ、あなたさまのことは、よく存じ上げております、御心配なく、と答えた。

 いま、自分の名前で、こんなことができる人がどれほどいるだろうか。クレジットカード会社の名前か、よほど信用のある大手企業の名前なら、相手も知っている。だが、個人の名前など、現代では、あって無いも同然だ。匿名として名前を隠すまでもなく、たとえ本名でも、それはなんの意味も持たない。それどころか、顔さえも無い。混雑するホームで駅員を殴りつけても、人混みに紛れ込めば、一瞬にして姿が消えてしまう。大勢の人が見ていたはずなのに、だれがだれだかわからない。そして、ここでは、実際、どんな悪事でもやるやつが出てくる。

 しかし、もう一つ、「ソロモン王の指輪」というものがある。これをはめると、小鳥のささやきや動物のつぶやきさえも、言葉として聞き取ることができる。「ギュゲース王の指輪」を使ってしまっている人物は、たしかに直接には見えない。だが、その指輪を使う人物は、じつはむしろ目立って、よく見えるのだ。匿名IPゲートを迂回しても、その同じ瞬間にその匿名IPゲートにアクセスしている人物は、通過するネット上のあちこちに痕跡を残してしまう。逃げた人物は、その場からは消えるが、逃げていく人物は、あちこちの監視カメラにどこまでも映像が写っている。これらをかき集めれば、その人物は容易に焙り出される。

 うしろめたいところのない、まともな人間は、わざわざ姿を隠したりしない。悪いやつは、姿を隠すことで、自分が悪いことをしていることを、自分で世間に広言してしまう。几帳面に裏帳簿を作ったり、メールを消したり、財産を海外に移したり、やればやるだけ、ああ、それこそが動かぬ悪事の証拠なのだな、と。なんとわかりやすいことか。

 ちなみに、調べる側がもっとも苦労する悪人は、もともと帳簿なんかつけていない、書類やデータの形式がぐちゃぐちゃで、むやみやたらな量がある、財産は価値不明な美術品の山。何人もが関わっていて、どこからカネが入って、どこへ出て行ったのか、だれにもさっぱりわかっていない、というような、支離滅裂なゴミ屋敷のような事件だとか。