野生のブリコラージュ

        /文明において、我々は、この道具はこういう道具だ、あの人物はああいう人物だ、と決めてかかっている。だが、状況によっては、使えるものはなんでも使って、うまく解決する野生の知恵が必要だ。/


 先にワールドカップが行われた南アフリカ。三十年前、1980年に同地で製作された世界的なヒットコメディに『ブッシュマン』という映画がある。セスナ機から投げ捨てられたコーラのビンを原住民が拾う。笛にしたり、芋を砕いたり、米をついたり、こんなすばらしいものは神様からの贈り物に違いない、と思ったのだが、あまりに便利なので、そのうち奪い合いになり、ついにはそれで人を殴ってしまうやつで出てくる。こんなものは呪われている、ということで、ニカウという男が、このビンを地の果てまで捨てに行く。つまり、文明批判の『指輪物語』のパロディだ。

 人類学者のレヴィ=ストロースは、このように、手近の物を応用して、うまく使いこなす発想を「ブリコラージュ」と呼び、これこそ「野生の思考」だ、と言った。我々は、文明の中で「栽培された思考」にどっぷりと毒されてしまっており、コーラのビンと思ったら、コーラを入れることしか思いつかない。

 ところが、ブリコラージュというのは、文明の最先端でも行われている。定式化される以前の試行錯誤の現場では、それ専用の道具など、まだ作られていないからだ。たとえば、事故を起こしたアポロ13号において、着陸船を避難ボートに使い、司令船の二酸化炭素フィルターが合わないとなれば、船内にあるガラクタをかき集めて、アダプターを作ってしまった。このシーンは映画でも見たことがあるだろう。いや、アクション映画では、ブリコラージュはおなじみだ。『ダイハード』でも、消火ホースを、火を消すためにではなく、ビルから飛び降りる際の命綱に使っている。

 この道具はこういう道具だ、あの人物はああいう人物だ、と、決めつけてかかっているのは、あなたの方だ。生の道具そのもの、生の人物そのものは、そんな枠に縛られてはいない。その道具、その人物をじっと見れば、もっと他のうまい使い道や生かし方が見つかるかもしれない。逆にまた、あれがないからダメだ、あの人がいないと無理だ、と、あきらめてしまうのではなく、ぐるっと見回してみれば、意外に身近にその代用に耐えうる物や人があるかもしれない。一つで不足なら、いくつかを組み合わせてみるのも手だ。

 宮本武蔵は、武士たるもの、道具を残して負けるのは恥だ、と言う。太刀でも、小刀でも、あるものはなんでも使え、と言う。みな折れてしまったら、敵の武器を奪ってでも戦え、と言う。敵の武器さえも無ければ、地べたの石や砂を掴んでも戦え、と言う。できない、負けだ、は、自分がそう思ったから負けなのであって、自分がそうせず、悪あがきを続ける限り、ゲームもまた続いている。

 原住民を引き合いに自虐的な文明批判の映画を作るなど、まさにステレオタイプの栽培された思考そのもの。現実の野生の思考は、もっとしたたかで、使えるものはなんでも使う。たとえば、マサイの間では、いまや携帯電話が大流行。観光客のアポ受けでも、婦人たちの招集でも、サバンナの獲物探しでも、携帯を活用している。例の赤い民族衣装を着て、電話で連絡しながら、槍を持って獲物を追い込んでいく姿など、かなりシュールだ。

 でも、それなら銃は使わないのか、って? 使わない。槍より銃の方が強いと思い込んでいるのも、栽培された思考だ。銃なんか、頭か心臓に命中しないかぎり、野生の獲物はそのまま走って逃げてしまう。ところが、連中の槍には猛毒が塗ってある。刃がかすっただけでも、獲物がぶっ倒れる。だから、この方が簡単なんだそうだ。