カメの頭よりウサギの足を

        /努力は大切だが、機知に基づかない努力は、まったくのムダだ。現状と目標との間に大きな距離があるなら、跳んで渡っていくための石の並びを見つけてやればいい。/


 莫大な手間と予算を費やしながら、最先端で地道に努力している、などというのは、おうおうにその最先端にいる連中の言いわけにすぎない。歴史を見れば、物事は、行き詰まった最先端からではなく、むしろ二芽くらい切り戻したところから新しい勢いのある脇枝が出るもの。

 たとえば、蒸気機関がどんどん巨大化して、その重量の支えるために、山野はもちろん工場や港湾など、いたるところに線路の敷設が国家事業として進められているころ、機械内部での爆発の力を直接に利用する内燃機関は危険すぎて絶対に不可能だ、と思われていた。しかし、それは、民間の方でさまざまに工夫され、どんどん小型化し、いまや自動車として、線路なしにゴムタイヤで世界中のどこにでも行かれるようになった。同様に、国家の威信をかけて宇宙ロケットの開発をしていたら、軌道計算のためのコンピューターや、簡単に調理できるインスタント食品の方が家庭にまで普及してしまった。

 カメは、低いレンガに突き当たっただけでも、それを乗り越えていくことはできない。それで、力任せにグイグイと頭でレンガを押し、少しは前に進んだ、と自慢げに言う。だが、二歩戻って、助走をつけて跳び越えてしまえば簡単なのに。

 ローマには巨大なアーチや丸天井がある。ただ下から地道に石を積み上げていっても、あんなものは絶対にできない。そういう人には、永遠に、作り方すらわからないだろう。あれを作るには、木組みで足場を作り、その上に石を並べ、丸くなったら、足場の方を取り去ってしまえばいい。現状と目標との間に距離があるとき、その間に足をつく補助点を置いてやればいい。近ごろはやりの謎解きも同じだ。まったく関係がないように見える御題と解答だが、その間に共通性を見つければ、両者はつながる。

  与えられた問題に対し、既存の解法を積み上げ、カメのように一歩一歩前に進んでいく努力を「クリティカ」と言う。これに対し、問題そのものに気づき、解法となる新しい補助点を見つける機知を「トピカ」と言う。十八世紀初頭のイタリアの哲学者ヴィーコの術語だ。努力は大切だが、機知に基づかない努力は、まったくのムダ。ヴィーコは、目先の次の一歩を追い求めてばかりいるのではなく、全体を空間的に見渡せ、と言う。全体の位置関係の中で、問題や、解決に必要な補助点を見定めよ、と言う。

 残念ながら、我々はそういう発想法の教育を受けていない。いや、教育のほとんどが、たとえば簿記のように、手順通りに正しくやる、間違いのないやり方の訓練だ。会計学のように、どうやったらうまく財産管理ができるかを自分で考え、必要があれば手順の方を変えていくというようなことは、むしろ越権であるかのように思われている。

 だが、現代のような閉塞状況においては、ただ目先のレンガをグイグイと押して守っているだけでは、いつか力尽きる。いつかレンガの壁は決壊して、向こうから洪水が押し寄せてくる。だから、いま、うまく助走をつけて、その向こう岸まで跳び越えていくことが必要だ。

 ただし、一気に跳ぶことは無理だろう。跳んでから考える、というのも、危険すぎる。そうではなく、よく河の中の石の配置を眺めて、どの石に足をついて、向こう岸にまで跳んで行くのか、見極めることが大切だ。そういえば、ウサギの足は、幸運のアムレットでもある。さあ、煮詰まっていないで、二歩下がり、全体を眺め直して見よう。