映像社会と詩の衰退

 いまでもやっているやつはいるが、それにしても、一般社会では、まず見かけなくなったねぇ。短歌や俳句だって、年来、話題にすら出ない。五七調なんて、錆びた交通安全標語くらいか。

 これは、たんに人気がない、というような廃れ方ではない。おそらく我々の生活の方が詩に合わなくなってしまったのだと思う。五七調だの、韻を踏むだのは、論外。雅語の言い換えなど、もはやだれにも理解されない。ちまたにあふれているのは、ネットから生じた言い間違え系の隠語。これじゃ、詩の余地などない。

 いや、心情からして、詩が消えてしまったのかもしれない。映像的なイメージの比重が増し、言語的なイメージは用済みになってしまったのか。すっげー、だけでは、そりゃ、詩にはならない。言葉そのものも、まるで百均で売っている安物のように、イメージとしての深みを失ってしまった。たとえば、「牛」と聞いても、牛丼か、せいぜい牛乳パックどまりだ。昔のように、広い草原で時を過ごす牛たちの牧歌的な風景、などというものは、現代の人々の生活経験からは消えてしまった。これでは、料理のレシピは書けても、詩にはならない。この問題は、日本だけではあるまい。欧米でも、詩なんか、そこらで見かけたりしない。韻を踏んでしゃべるような演説も、作為的すぎて、はやらない。だが、これでいいのだろうか。