都市デザインの戦争

 ヒットラーが都市デザインを画いたのは1925年、首相になるはるか前。彼の政治と戦争は、この構想のためのものだった。ナポレオンは理念のためにドイツを蹂躙し、ロシアへ侵攻したが、ヒットラーは、ナポレオンよりも、パリ改造を実現したナポレオン三世の方にあこがれていた。だから、フランスを占領しても、パリを破壊することはなかった。

 パリ改造のときもそうだったが、都市デザインで核となるのは、密集スラムの撤去だ。ドイツの場合も、最大の都市計画上の問題はユダヤ人地区で、その再開発としてユダヤ人嫌悪が現実の追放へ具体化してしまった。ただし、雇用対策を兼ね、ドイツはドイツ人が建設する、ということで、ユダヤ人は建設の労働力とは見なされなかった。また、東方侵略も、多産家族のための入植都市建設が目的であり、まるで家にガス管を引くようにカスピ海を目指した。

 このヒットラーの意志を知っていたから、連合国は、爆撃でドイツ都市を徹底的に破壊した。ヒットラーが夢見た壮麗な街は、その完成を待たずに瓦礫に帰した。そして、ニュルンベルク裁判で、ドイツ側要人たちの方が「文明(シビリゼイション、都市)の破壊者」として糾弾されたことは、歴史の皮肉としか言いようがない。