芸術行為論

 デュシャンの泉は便器だ。あの時、それを出展することで画壇に一石を投じたことに意味がある。それをいま美術館に保存して、いくら眺めても、そこにもはや美などない。当たり前のことだ。これは他の作品でも同じこと。それが作られたときの状況が失われれば意味も失われる。

 もっとも傑作は、作者の想像や意図を越え、同じ作品が、まったく別の状況で、何度でも、みずから新たな意味を獲得する。まるで作品そのものが生きて語り出すかのようだ。このような特異性を持つに至った傑作は、古典と呼ばれる。

 だが、デュシャンの泉は、そうではない。終わった作品だ。美術史上の博物館的な意味しかない。演劇や演奏なども、そのときの気分や空気を吸い込んでこそ輝く。テレビや映画ですらそうだ。それは作品として保管しても、その作品の命まで取っておけるものではない。

 作品を保管するために誰にも見せない、というのはバカげている。すべての作品は滅びるべきものだ。そして、それが滅びることによって残るものがある。テセウスの船のように、壊れたらまた何度でも同じものを作ればよい。それでこそ芸術は生き続ける。