譜面主義のドグマ

ヨーロッパでは、街中でも、教会でも、クラシックがありふれた風景の一部になっている。なにか人が集まれば、フルートだの、ギターだの、だれかしらが楽器を持ってきていて、ものの前置きにちょっと一曲、ということになる。とはいえ、日本のクラシックの連中が見たら、あんなのはクラシックじゃない、というだろう。有名な曲だが、みんな我流なのだ。譜面通りになんか弾かない。

しかし、譜面など、もともと塗り絵の下書きのようなものにすぎない。古来、演奏家というのは、自分の曲を演奏するのが当然で、他人の曲を演奏する、などというのは、盗作も同然だった。十九世紀後半、ピアノの爆発的普及期に、リストのようなやたらややこしい曲が出てきて、仕事を持たずにすむ中流家庭(雇われ経営者層)のシロウト婦女が暇に飽かしてパズルのように技巧を解くのを楽しんだだけのこと。

マイスタージンガーのように、いまの自分の気持を詩に歌い、それに自分で曲をつける。それでこそ、ライヴに栄えるプロというものだ。他人の描いた出来合いの塗り絵のうまさを競い合うこと自体、バカげている。それはそのゲームの参加者の中でしか成り立たない優劣で、世間からすればどうでもいいのは当然のことだろう。