目的としての芸術

コリングウッドが指摘したように、芸術すなわちアートは、技術と同根であり、手段であって、目的を達した後には放棄されるべきものだった。ところが、近代において、芸術は、手段としての技術とは分岐し、それ自体が目的となった。しかし、逆に言えば、特定の目的に対して有益な手段である技術に対して、なんの役にも立たないものとして、芸術が括り出されてきた、ということだ。

目的化した手段、目的をもたない手段とはどういうことか。それは、現代社会の生活における複雑な目的手段連関にとって、行き止まり、それどころか、もともとはまっているところのない余剰だ。それは、まさに、遊び、と呼ぶにふさわしい。あってもなくても影響がない。

いや、無用の用がある、その余裕が再調整に役だつ、などと屁理屈をこねるのはよそう。大いなるムダ、でいいではないか。世界にとっては、人間の存在そのものが、もともとどうも余剰であるようなのだから。経済だ、科学だ、と、なにか役立っているように見えるが、それも、結局のところ、ムダな絵画を描くための筆洗壺のようなものにすぎない。