書くことの虚構性

ナラトロジーは、いまだレシ(書かれた、語られた文章)の文法に捕らわれすぎている。それは、本来、行為としてのナラシオン(語ること)そのものの文法であるはずだ。そして、レシは、すでにナラシオンとして虚構であり、つねに、それは誰かとして語られる。

そもそも作家ですら、個人として私的に書き散らすのと、作家として作品を書き出すのでは、わけが違う。そのうえ、作家は、いくつもペンネームを変えて、別の芸風文体で書き分けて、作品作りをすることも珍しくない。さらに、作品においては、作家は、自伝と称するでもないかぎり、想定話者(インプライド・オーサー)を別に立てることの方が一般的だ。つまり、読まれるべきレシが存在すること、レシが存在せしめられた、ということ自体が、すでに作家によるフィクションなのだ。

だから、書かれたレシを分析しても、それはすでに虚構の中にある。ナラトロジーを問うのであれば、書かれたレシではなく、作家という生き方そのものへ舞い戻っていく。奇妙に聞こえるかもしれないが、作家を殺す受容理論は、じつは、もとより、そのように読者に作家を殺させしめようとした作家の手の中にある。