錯時法という錯覚

ジュネットがこの術語を作りだして以来、問題が生じた。つまり、この術語こそが必要のない問題を作りだしたのだ。まさにハエ取り壺に落ちたハエだ。ジュネットは、イストワールとレシとを持続時間上に対応させようとする。ところが、彼の言うイストワールは、レシから再現されたものにすぎない。

そもそもレシは、描写と説明とが区別されている。描写は、物語のステップを構成するディスタクシーで、順序的だが、けっして持続的ではない。一方、説明は、物事のイメージを準備するデノテイションで、過去の事情を含むとしても、物語の部分ではない。そして、前者の意味は、後者によって規定される。ディスタクシーとしての描写とデノテイションとしての説明を同列にして並べ直し、それをイストワールの再現だなどと言うから、時間順序が混乱するのだ。

たとえば、『黒い雨』は、九月に書かれたとされつつ、八月六日の朝から始まる。この前文は、仕掛けの説明であって、書いたことの描写ではない。時間順序が戻ったのではなく、八月六日以降の描写全体に、前文による理解の仕方の説明が負荷されている。つまり、あくまで九月に八月六日のことを回想しているのであって、すべてが九月の出来事だ。