芸術と記号論

記号論というと、十九世紀末からの論理実証主義の影響を受け、二十世紀半ばにはさまざまな分野で大流行した。芸術でもそうだった。なかでも、パノフスキーだの、メッツだのが、絵画や映画を記号に分解し、その亜流が大量に発生した。だが、大元のメッツ自体が、あまりに不勉強だったと言わざるをえない。芸術の記号論は、その百年も前から大いに論じられている。

これを、詩と絵画のパラゴーネ問題と言う。レッシンクが、1765年の『ラオコーン』において、ホラティウスのテーゼ「詩は絵のように」を否定し、詩は時間継起的だが、造形は空間並列的だ、などと、くだらないことを言いだし、ゲーテまでもが、この路線に乗っていった。

我々は、線形のレコードプレイヤーではない。彼らの誤りは、デカルト・カントの統覚にひっぱられて、芸術と作品、そして、その鑑賞を一つに混同していることだ。芸術記号論は、作品の形態と鑑賞の状態の関係を論じているだけで、そこには芸術が抜け落ちている。我々は、感性において、作品ではなく、芸術を一つの総体として体験する。