研究者と評論家と解説者

学生のレポートでもあるまいに、あまり人の知らない小説や映画のあらすじを、もったいぶって延々と書いただけ、などという学者の論文も珍しくない。いや、哲学の論文の大半がそうだ。また、評論家のくせに、作者や政治家の売り込みの裏書き、提灯持ちをしたり、解説者のくせに、偉そうにあれこれ作品や事件に注文をつけて、思いつきの意見を言ってみたり。

きっと、彼らは、幼少からコミュニケイション能力が欠如しているのだろう。その言葉は、独り言の域を出ない。いや、言っていることは間違いはない、と彼らは言うが、いまここでそれを言うことが間違っているのだ。

いま、ここで求められているのが、研究なのか、評論なのか、解説なのか。それによって語るべきことはまったく異なるだろう。淀川長治などは、このケジメがしっかりしていた。研究と評論と解説。文体、語り口も際だって異なっている。深く見習いたいものだ。