リアル情報とデュプリケイト情報

 私の近所では、一戸建てでも、マンションでも、やたら物置が多い。それも、巨大だ。休憩所サイズのプレハブが物置として庭を埋めていたり、ベランダの避難壁の両側に物置がおかれているところさえある。命に賭けてもモノは処分できないのだろう。

 80年代の住まいは収納スペースが少ないから、というのは間違いだ。たしかに90年代以降の家やマンションには、ウォークインクローゼットがあるが、これは、収納の問題というより、家の過密化と巨大化によって、採光のない間取りができてしまった際の建築サイドのいいわけにすぎない。70年代までの一戸建てや団地などの住まいと比べれば、80年代の家は、個々の部屋も大きく、部屋数そのものも多い。

 友人知人の家の中の様子から察するに、問題は、むしろ80年代にやたら収納家具を買ったことの後遺症ではないだろうか、と考えている。つまり、収納家具であるタンスや戸棚を収納するために、物置が必要となってしまったのではないか。

 じつは、物置のことなど、どうでもよい。問いたいのは、現代の情報化だ。たしかに情報量は幾何級数的に増えている。それもそのはず。情報についての情報、そして、その情報についての情報についての情報、と、まさに幾何的な構造を示している。

 そもそも、元の情報自体が、出典不明のままコピーされてきた「デュプリケイト情報」で、生の情報、つまり現実から採られた「リアル情報」は、むしろ減っている。同じことは、学究の世界でも先行しており、学者が生で調べ考えた「リアル情報」は研究不足、根拠不足とされ、どこかの権威からの「デュプリケイト情報」の寄せ集めばかりがスコラ的に評価される。

 「デュプリケイト情報」は、神学化する。現実と遊離し、知識のための知識、論争のための論争となる。債権の格付、オプションの売買など、その典型だろう。あまりに実体がない。これらは、タンスを物置に片付ける作業のようなものだ。まとめて捨ててしまっても、なんの影響もない。それどころか、ムダな手間と時間の節約になる。なんにしても、片付けの片付けで日々を追われることほどムダなことはあるまい。