思考の原理とサイエントロジー

 四月から、「思考の原理」なんていうタイトルの科目を担当することになっているのだが、なんとなく嫌なんだよなぁ。いや、中身がどうこういうのではない。こんなタイトルの科目、いったい誰がカリキュラムに盛り込んだのか、そこがちょっとね。

 大辞泉だと、「思考の原理」は、Denkgesetzeの訳語であって、論理学の基本法則だと言う。で、中身は、同一原理・矛盾原理・排中原理・充足理由の原理の4つだそうだ。この項、だれが書いたんだよ。(じつは林巨樹先生は、青山にいらっしゃったころから個人的に面識がある。)なんにしても、こんなの、現代の形式論理学の話じゃないじゃん。19世紀初頭のヘーゲルのころの「論理学」って、それこそプロティノスから派生してきた、神秘思想みたいな生成論理学だし、そのうえ、この大辞泉の説明は、そういう変なヘーゲルと張り合っていたショウペンハウアーの学位論文「充足根拠律の4方向に分岐した根について」1813の個人的な主張を採り上げている。たしかに、かつて一時期、ショウペンハウアーは多少の人気があったが、しかし、カントやヘーゲルほど一般的な影響力があったとは言えまい。まして、日本の国語辞典の項目として採り上げるのは、まったくの無謀だ。

 むしろ『思考の原理』と言えば、サイエントロジーだろう。例の、トム・クルーズジョン・トラヴォルタが入ってるやつ。ザラ紙雑誌のSF作家、ロン・ハバードは、1950年に『ダイアネティックス』を出し、大ベストセラーになった。そして、1953年に、サイエントロジー教会を創設。Eメーターという電流計みたいなのを使って修養する。その主著が1956年の『思考の原理(Scientology: The Fundamentals of Thought)』。

 サイエントロジーは、教団としての運営方法だの、教義の内容だの、いろいろうるさく批判されているが、個人的には、どっちもどっち、という気がする。宗教でも、医者でも、弁護士でも、大金を巻き上げることにかけては、大差ないじゃん。連中の世話になって、まっとうになったという話も、あんまり聞かないし。

 サイエントロジーに対し、もっともぶち切れているのが、精神科医たちで、サイエントロジーはインチキ科学だ、向精神薬を否定して患者を悪化させてしまっている、と息巻いている。しかし、米国の心理学者って、もともとフロイト派にしても、ユング派にしても、マズロー派にしても、それ自体が、特定の医者個人へどっぷりと依存関係に陥らせるところなど、キリスト教の告解からパクった手法で、まさに新興宗教っぽい。そのうえ、連中は、なぜかユダヤ教徒ばかり。向精神薬も、米国の消費量は濫用と言ってもいいほど。そりゃ反動で、精神科医への依存や向精神薬を徹底的に嫌う連中が出てくるのも不思議ではない。

 サイエントロジーは、変なSF神話がくっついている、だから、偽科学だ、とケチをつけるのも、的ハズレだろう。ハバードの言うジヌーの話は、なんと古代ギリシアから延々と語り継がれているタイプのもので、それこそプラトンだの、グノーシス主義だのにも出てくる。それがSFっぽく語られているだけだ。また、ダイアネティックスは、人間の心を、エングラム(トラウマ)に基づくリアクティヴマインドと、科学的なアナリティカルマインドの2つに分け、サイエントロジーとして、後者による前者の克服を目指す。これも、フロイトの心理学と、仏教の還滅縁起の正思惟とをくっつけ、20世紀後半の科学万能主義でくるんだようなもので、そんなに変でもない。ごちゃごちゃケチをつける連中は、彼らの自説と合わない、ということであって、べつに、どっちが正しい、というほどの根拠は、どっちにもないように思われる。

 しかし、私が嫌なのは、なんにしても、「思考の原理」を宗教論にしてしまうことだ。それは、ライプニッツ教でも、カント教でも、ショウペンハウアー教でも、ヘーゲル教でも、フッサール教でも、ハイデッガー教でも同じこと。人間がどんな風に考えるかもよく考えないうちから、こう考えるべきだ、偉い先生がそう言っている、と言ってしまうと、なんでそう考えるべきなのか考えられなくなってしまう。

 本音を言えば、人間の思考にまともな原理なんかない、だから人間は、そのときどきの浅はかな思いつきでバカばっかりやってきた、歴史がそのことを証明している、と思っている。だから、「思考の原理」という科目を教えろ、と言われても、そんなもん、人類誕生の昔っから無いよ、あったらこんなにみんな苦労していないよ、としか言えない。でも、講義をやらんわけにもいかんし。さて、何を話して、一年、もたせようか。困ったな。