教育と理念1

 私学の高等学校まで無償化すると言っている一方で、名門小学校ですら学級崩壊が起きていることが世間に知られてしまった。

 『小公女』のように、べつに日本に限らず世界的に、私学の方が、親の事情が絡むために、昔からいじめはややこしかった、だが、どんな親であれ、しつけのなっていないガキが入ってくる余地などなかったはずだ。ところが、厳しいお受験競争にも関わらず、バブルがはじけたころから、定員充足や寄付募集ができなくなっているところも、じつは多い。これとともに、まさに親の事情が絡んで、公立校よりタチの悪い学級崩壊が起こっており、学校側はその隠蔽に追われていた。つまり、公立なら、このバカガキが、ということで処分すれば済むが、私立では、親の立場もあって、体よく別の受け入れ先を探さなければならない。今回、表沙汰になったのは、もはや隠蔽すらできないほど、状況が悪化していることを示している。

 知り合いが勤めていた、ある私学底辺高校は、キリスト教精神に基づき、学校に来ない、もしくは、学校に来てもどこかへ行ってしまう迷える子羊たちを探して、あっちこっちと走り回っていた。しかし、それはそういう高校なのだ。もちろん途中で辞めてしまう学生も少なくないが、そうやって先生方にいつも追いかけ回されて、それでかろうじて卒業までたどりつく学生は、ずっと多い。教師の言うことを聞くことはないが、だからといって、それは、そういう捨て身の教師を尊敬していないということではない。

 逆に、某県のように強圧的に規律づけても、心の底では教師や学校への軽蔑と反発を募らせ、結局、かえってなんの効果も得られない、ということもある。人を相手の仕事なのだから、それもまだ人間になりきっていない半人前を相手にするのだから、紆余曲折は当然のことだし、その紆余曲折こそが長い目でみれば、良い結果になることもある。

 しかし、半人前の連中ほど、建前だの肩書だのに振り回されないだけに、じつは良く大人の本質を見抜いているものだ。学校の事情だの、親の事情だので、ある子供に対して毅然とした態度がとれないような腰の引けた教師には、他の子供もまたその弱腰を見抜いて増長する。ある意味、連中はヤクザと同じだ。逆に、教師に本気で差し違える覚悟があり、それを校長も全面的に支える体制であれば、そのことは子供にも伝わる。

 ところが、公立にせよ、私立にせよ、校長は教育委員会だの、理事会だの顔色を伺ってばかり。教師は、大半が県内校長経験者の縁故採用だらけ。まじめに教育に取り組もうとしている若い教師は、任期付で生活苦に追われている、などという状況は、子供たちも肌で感じてわかっている。学級崩壊以前に、学校制度そのものが崩壊している。

 学級崩壊を止めたければ、教育委員会から校長経験者を排除し、教員の縁故採用を止めるところから始めないと無理だ。とくに私学であれば、管理の年功序列による名誉職化を排して、理事会に対し、その私学の教育理念を体現し、その実現に責任を追いうるような人物を抜擢することが不可欠だろう。しかし、人間関係のしがらみだらけの現在の学校において、こういう改革を断行するだけの尊敬と人望を集める教育者すらいない。むしろ、そういう立派な教育者がいたならば、親も、子供も、支援者たちもみなついていって、そこに新しい学校ができるはずだ。実際、名門と呼ばれる学校は、これまでそうやってできてきたのだから。