つまずきの石

 キリスト教は、イエスが教祖というわけではない。むしろ、イエスを巡るパウロらの思想によって形作られている。その根本は、イエスが救世主だ、ということだ。

 しかし、ここには大きな神秘が潜んでいる。というのも、この世でのイエスは、あまりにもへなちょこで、神殿でちょっと騒ぎを起こしたほかは、結局、大したことはなにもせず、あっけなく処刑されしまったからだ。あんななにもしなかったやつの、どこが救世主なのか。

 だが、イエスは救世主なのだ、と認めることにおいて、すべての見え方が変わってくる。なにもしなかったのではない。かくも無抵抗に処刑されることにおいてこそ、イエスはなにかとてつもない世の救済を成し遂げたのであり、そこにこそ、人の思慮をはるかに超える壮大な神の恩寵が見えてくる。

 Credo quia absurdum、不条理ゆえに信ず。一世紀末のテルトゥリアヌスの言葉は、理性の拒否ではなく、信仰の優位を意味するものであり、その信仰の優位において、理性を働かせるべきことを示している。そもそも理性と思っているものは、すでにそこに別の盲信が潜り込んでしまっている。言って見れば、それは、自分で自分を信じているようなもので、結局、なにも信じられないのと同じことになる。

 一見、不条理と思われること、あえて理性の外に橋頭堡を打ち立てることによってこそ、自分の盲信の外へと理性は解放される。理性は、もはや理性自身の自縄自縛にとらわれることなく、真の自由を得て、新しい、より大きな世界観が開かれる。

 これは、なにもキリスト教に限らない。ソクラテス無知の知を言い、また、悪人正機、の信仰においてこそ、自分を善と思う悪を知り、悪と知る善を思う。不条理にこそ条理があり、その条理を不条理としてしまっていた理性にこそ不条理があることが見えてくる。

 しかし、それは、中の人には永遠にわからないだろう。将棋の中で、歩は歩、桂馬は桂馬、どのコマはどう動かなければならない、金より王の方が偉い、と思っている人を前に、盤面をひっくり返し、なんだ、結局ぜんぶ、ただの木のコマじゃん、と言い放つようなものだ。中の人は怒るかもしれないが、どちらが真実かは、あきらかだろう。


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