錬金術と神秘思想

 死と再生をテーマとする思想は、世界中にある。しかしながら、その多くは、難解な比喩的詩文で書かれていることが多く、一般にはわけがわからないもの、それどころか、でたらめを書き連ねたもの、と思われてしまっている。

 だが、ほんとうにでたらめだったら、これほど命脈を保っているものか。これらの思想は、具体的な思考の内容ではなく、思考の原理や思考の枠組に関するものだ。物事の見方、考え方を根本から組み替える。しかし、物事の見方、考え方、そして、取り組み方がこそが、人格である以上、これらを変えるということは、その人そのものがその人ではなくなる、ということだ。

 物事の見方、考え方、とは、どういうことか。それを見方や考え方において変える、とは、どうすることか。死線をさまようような病気や災難を経て、人が一変する、ということがあるが、これは良く変わることもあれば、悪く変わることもありうる。好んで変わった、というより、無理やり変わらされただけであって、むしろそこで得た人格は、もはや自分のものではなくなってしまう。

 しかし、このままではいけない、と思う人が、確実に正しい方法で生まれ変わる方法もありうる。もちろん、それは容易なものではない。だが、宗教にせよ、哲学にせよ、人間は年月をかけて、その難路を越え渡す導きを少しずつ整えてきた。それは、見方、考え方そのものに関わるものであるから、物事についての通常の言葉の用法では伝えられない。むしろ、通常の言葉の用法が破綻する隙間をかいま見せることにおいて、その隙間から、その外の世界へと人を導く。

 それにしても、神秘思想の説明は、ひどいものが多すぎる。みな研究者としては大まじめなのだろうが、その根本がわかっていない。本人自身が実践的に取り組むという覚悟に欠けているからだ。だから、最初から最後まで意味がわからないで、言葉の表面をさまよい続けて、注釈を山盛りにして、逆に眼目を見えにくくしてしまっている。こういう連中は、はっきり言って、真剣に取り組もうという人々にとって迷惑なだけだ。

 よく言われるように、神秘思想において、言葉の言っていることには、その思想の伝えようとしている眼目はない。言葉の言えないところ、その破綻しているところにこそ、その言葉で導こうとしている外への道がある。研究者のように理屈で理解しようとするのではなく、むしろ、おかしい、と気づくことにおいてこそ、その思想が伝えようとしているものが見えてくる。そのおかしさを、そのままに自分に受け入れるとき、それを支えきれない全体の構造の方が胎動を始め、やがて壮大な知の組み替えが起こる。


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