ソクラテスの産婆術と知恵のイメージ

 産婆などと言われても、よくわかるまい。助産師と言った方がよいだろう。ようするに妊娠から出産まで、さらには産後や乳児のケアまで、また、妊娠以前の避妊教育まで、妊娠と出産かかわるいっさいを扱う仕事だ。

 ソクラテスは、その母が助産師だった。そして、彼は、自分の仕事を、知恵の助産師、と呼んだ。自分自身は知恵を生み出すことはできないが、自分は、人が知恵を生み出すのを手伝うことができる、と言う。まず懐妊が本当かどうか、を確かめるところから始まり、その本人の中で、その知恵を十分にはぐくみ育てるのを助ける。そして、いよいよ知恵を公然と実現実行する際にも、手だすけをする。

 興味深いのは、この時代、知恵というものが、あくまで自分自身で生み出さなければならないもの、と考えられていたことだ。人からの聞き伝えの借りものでは、けっして自分の知恵にはならない。つまり、知恵は、情報ではない。外からは身につかない。自分の内において年月をかけて培ってはじめて、ものになる。

 こういう意味の知恵は、近代ににおいて、あまりに軽視されている。知恵は、人となりそのものであり、自分というものは、自分自身で生み出すべきものだ。熟考に熟考を重ね、あるときその一歩を踏み出して、自分自身を顕わす。

 自己啓発、なんていうコーナーがそこらの書店でもあるが、あれはまさにソフィストたちの浅知恵だ。そんなものを聞きかじりで受け売りしても、それは自分の知恵ではない。ほかの誰とも違う人生を歩んできた自分に根付いてこそ、これが自分だと言える知恵がそこに立ち現れるのであって、それこそが本当の自己啓発だろう。つまり、自分の知恵の芽は、自分の中にこそあり、そこに受け売りの重い湿った土を乗せてばかりいては、芽が腐ってしまう。

 知恵の助産師は、だから、そういう知ったかぶりの受け売りの見せかけを、むしろはぎ取る。そして、そのことによってこそ、その人の本来の知恵が蘇る。ソクラテスは、無知の知を言う。知っていると思っていることにおいて、まさにむしろ知らないことを露呈してしまっている。逆にまた、知らないと気づくことにおいて、そこにいかに知恵の力が芽吹こうとしているか。

 師は生きて目の前にいるとは限らない。過去に思索を巡らし、言葉を残した先哲を追うとき、自分の目の曇りが落ち、光を得るということも多い。そういう本は、むしろ棘だらけの藪の中へあなたを引き込み、引き回し、最後までなんの答えも与えてはくれない。しかし、そのことによって、いつの間にか、あなたの全身を覆っていた知ったかぶりの浅知恵は、みんな削ぎ落とされている。なんにしても、こうすればうまくいく、なんて言っているお手軽な自己啓発書は、自分自身そのものを生み出すには、役には立つまい。


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