政治家と沈黙の修辞学

 べつに政治に関しては詳しくもないし、よくわかってもいない。とはいえ、政権が代わって思うに、よくもまあぺらぺらと口が軽い連中ばかりだな、と、呆れさせられる。すでに哲学では、言語行為論がよく知られているが、言っていることが正直であるとか、正論であるとかいう以前に、言うことがどういう影響を及ぼすのか、すこしは考えたりしないのだろうか。

 民主主義において、政治は、言葉の中での整合性が論争の的となるが、それは本来の政治ではない。重要なのは、現実の問題に整合的に対応できるかどうかだ。

 私のように何を言っても政治的な影響力のない人間だから言ってしまうが、たとえば沖縄米軍基地で最大の問題は、沖縄の県民でも、日本の防衛でもなく、極東地域の国際安定だろう。けれども、日本の政治家も、米国の政治家も、まさか、北朝鮮が仮想敵国だから、などということは、口が裂けても言うわけにはいかない。そんなことを言って、北朝鮮を刺激して、良いことなどなにもないからだ。

 しかし、言わないからといって、問題がなくなるわけではない。政治家は、その言わない問題のために、別の方便を重ねる。むしろ、状況が切迫してきている以上、当然、より早く対応できるところへ移そう、というのが話の大前提だ。だいたい、基地なんだから、なんでもどこでも作りゃいい、というものではあるまい。グアムでいいんだったら、米軍だって、最初から沖縄くんだりまで出てきたりしない。わざわざ沖縄に基地を置くのは、現在の兵器の性能では、必要時間内に目的地点まで軍事行動が採れる距離が、物理的に重大な条件となり、それが国際危機に直結するからだ。(もっとも基地があまりに近すぎれば、最初に先制攻撃をくらう。)

 反撃鎮圧までに、二手、三手までの軍事行動が可能なら、一手目の電撃戦で既成事実を前進させ、二手目で先に休戦を宣言して反撃を封じてしまい、三手目では国際和平会議にもちこんで、結論を永遠に引き延ばしにし続ける、という戦略がありえてしまう。太平洋戦争末期のどさくさで日本が北方領土を取られてしまったのなど、この典型だ。イラクのクェート侵攻も、これを狙ったものだったが、米軍の到着が早く、そのまま湾岸戦争になだれこんだ。しかし、これは、米軍がそう早く来られないだろうと、イラクに思わせてしまっていた時点で、すでに政治的には失敗だった。沖縄に基地が存在する、ということは、早い反撃が可能である、という沈黙のメッセージになる。実際、こうなると、相手も打てる手が一手に限られ、それゆえ、勝算がないとして、その一手も打って出ない、という抑止力になる。

 しかし、ややこしくなるのは、ここから。民主主義において、面倒な敵は、むしろ国内にいる。古代ギリシアでもそうだったが、エセ政治家(デマゴーグ)は、口で言わない問題は、現実にも存在しない、というレトリックを駆使して、このディレンマを突き、主流政治家の追い落としを目的とする。まあ、野党であれば当然の行動でもある。ところが、今般は、与党の中でも、これをやっている。難しいのは、社民党がもともと北朝鮮との関係があまりに深い、という背景が存在している点だ。確信犯なのか、それとも、ほんとうに政治家としての資質に欠けて、国際情勢になにも考えが及ばないのか、だれかに騙されてしまっているのか、よくわからない。

 べつに北朝鮮が好きでも嫌いでもないが、もはや政治的、軍事的に、かなり不安定であることも事実だろう。現状では、北朝鮮政府でさえ、今後の政権がどうなるのか、制御に充分な自信を持てない状況だ。こんな状況である以上、周辺諸国の政治家なら、口に出しては言えない(言えば、まさに不安定さを助長して、むだに暴発させる)この問題に対して、無言で危機管理をする。国際社会のなかで、さまざまな物事を沈黙のメッセージとして読み解き、たがいに危機管理として対応していく。沈黙の修辞学が理解できなければ、ほんとうの政治家とは言えない。


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