タダ経済というバブル

 『フリー』を読んだ。二度も。ようするに、これは、経済学で言う受益者負担者分離で、無形財(サービス)の特徴だ。たとえば、獣医は、犬にサービスして、飼い主からカネを取る。したがって、犬はタダでサービスを受ける。これが基本形。このズレは、同一集団の一部とその他大勢、ということもある。たとえば、デパートでの購入客と試食客。また、時間差や商品差のこともある。客寄せのコーヒー無料券、などというのがそうだ。

 著者クリス・アンダーソンは、この問題に、ソフトサービスの限界費用が限りなくゼロであることを絡める。限界費用というのは、次のもうひとつの追加費用のことであり、たとえば、どのみちコーヒーを客にドリップするなら、それにお湯を足すだけの出しがらのおかわりは、もともとほとんど原価がかからない、というような話。

 もともとラジオでもテレビでも、放送は、通信よりも、巨大なコピーマシンとして機能しており(ヒットラーは、まさにその機能を利用した)、インターネットも、同じメカニズムを持っている。ソフトは、受益者が自分の手間と費用でコピーするなら、日本のように、販売遺失機会を大げさに考えるのでもなければ、提供者としてはなんの負担もない。

 で、アンダーソンは、ここに壮大なアマチュアリスムの社会が出現すると、多くのソフトサービスがタダになる、と言う。この理屈は正しい。しかし、アンダーソンのうまいところは、結局、これを、きっちりとした経済学や文明論の本としてではなく、ビジネス書として売っていること。例にしたって、結局、グーグルがらみがほとんどだ。一言でいえば、損して得取れ、ということ。サービスをタダにしても、市場を占拠してしまえば、利益は後から支配できる、という戦略。

 さて、純粋にマクロ的な社会経済学として考えると、どうなのだろう。こうなると、タダ経済の問題より、アマチュアリスムの人間行動の問題だ。もちろん、純粋に趣味で自分の作品をより多くの人に見てもらいたい、という人もいる。が、実用の質に耐えるだけの作品で中核を支えているのは、プロ志向のワナビだ。これは、スポーツでも同じ。プロが何億も儲けるからこそ、その何万倍もの若手のアマチュアが育つ。しかし、一流のプロとして成功をつかめないと、それこそ遺失機会が大きく、人生そのものが取り返しのつかないことになる。したがって、経済学的な発想からすると、じつのところ、元ワナビを含む総人数で業界の総収入を割ったら、一般サラリーマンの収入と大差ないところ、それどころか、周辺コストがあるから、はるかにそれ以下の均衡しているのではないか。これでは、人生の博打だ。(そして、博打で絶対的に儲かるのは、胴元。)

 企業についても同じことが言える。グーグルのように結果として成功した企業だけを例に見ると、経済学としては大きな間違いを犯す。グーグルと同じようなタダ戦略や超低価格戦略で失敗する企業は、じつは膨大にある。そういう企業は人に知られないまま終わる。しかし、そのムダは、回収不能として関係各社に分散される。社会的にタダになったわけではない。なんにしても、おそろしいのは、だれもが、いまムリをしても、いずれ何万倍にもなって帰ってくる、と思っているアメリカンドリーム的なバブルだ。それも、社会的には、本来の最適化よりも、まったくムダに過剰になる。そして、そのツケは、夢を見た本人ではなく、その出来損ないからロクに受益もしていない社会の方が払わされることになる。

 意図的なのか、バカなのか、アンダーソンは、マクロとミクロのすり替えが巧みだ。後半になると、マクロからの批判をミクロの話ですり抜け、合成の誤謬をぬけぬけとやる。それで、タダ商売は儲かる、などと言う。このソフィスト的なレトリックがおもしろくて、二度読んだのだ。しかし、現実には、タダはムリ、ムリはムダ、ムダはツケになる。


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