芸術と乞食

 「河原乞食」という言い方がある。坊主崩れの落語家は木戸銭を取るが、役者は、いったん地べたに落ちた投げ銭を拾う。けっして直接に手渡しでカネを受け取ってはならない。このことは、いまでも微妙な形で残っている。俳優は本人が直接にギャラの交渉をすることはない。事務所なりマネージャーなりをかます。

 役者だって、きちんとした職業だ、などと思っているやつが、ロクな役者だったためしはない。なぜか。それは、その人が職業として役を演じてしまうから。演じているのがわかるような役者では、観客は、その芝居にのめり込むことができない。

 それは、ミュージシャンでも、画家でも同じことだ。心に聞こえる音、目に見える景色のために、すべての自我を投げ打ってこそ、自分と美が一体化する。そこに少しでも自分が残っていたならば、美を自分に受け入れることができない。それは、一種の霊媒であり、集団無意識を受肉させる者だ。

 しかし、そのためには、まず自分というものを犠牲に捧げなければならない。そのためには自分が何者かであってはならない。何者でもないことによってこそ、アーティストは美を受肉させ、アーティストとしての自分になることができる。

 仏陀が言うように、ムダに自分の体を痛めつけても、そんなことは、真理とも芸術とも関係がない。しかし、洋の東西を問わず、古来、山を駆け、滝に打たれ、深夜に蝋燭の炎を見つめ、自分を無にするための訓練を重ねたアーティストも多い。ハノンやデッサンも、そういうレッスンの一種だ。単調でムダに思えるが、それをムダと思う自分こそが美にとってムダなのだ。

 地を這いつくばって、投げ銭を拾い、すべてのプライドを捨て去ってこそ、その自我の燃え尽きた灰の中から、そんな日常の自分とはまったく違う、だれも手で触れることのできない、どんな現実にもしばられていない、まったく別の人物がそこに立ち上がってくる。自分が無くなれば、その肉体はどんな人物にもなることができる。自分が無くなれば、その心は天上の音を聞き、その目は地平の光を見ることができる。