美の追究という過ち

 アーティストのワナビは、安易に美を探したがる。しかし、ハイデッガーを待つまでもなく、人がなにかを探すとき、それはそのときすでに自分の中にその探すべきものを知っていなければならない。

 ここにひとつの答えがある。すなわち、答えはすでに君の中にある、ということだ。君が探そうとすることにおいて、君はじつは君が探すべきものをよく知っている。答えは、つねに君とともにある。このことは、神や真理という問題について言えることだ。

 ところが、美については、もうひとつの答えもある。美はつねに驚きだ。思ってもみなかった衝撃がそこにある。そこになければならない。オレは美を求めている。だから、オレは美を知っている、などというのは、思い上がりだ。君が知っていると思っている美は、君がすでに知ってしまっているがゆえに、君を驚かすことはことはない。そんなものは、わざわざ求めるまでもない。それは、真の美としての力を持ちえないからだ。

 美は、絶対的に君のものではない。まるで砂漠の逃げ水のように、君が近づけば、それは遠のく。それでいて、思いもしないときに、君の目の前に突然に現われ、君の全身を潤し、陶酔に導く。

 君が美を探すとき、君が探しているものは美ではない。むしろ、そのことによって、君は新の美との出会いの機会をのがすことになるだろう。そうではなく、美との出会いは、待つものだ。なにも求めようともせず、ただ待つことだ。

 日々日常の生活の中で、選り好みなくすべてを受け入れるとき、その中に突如としてそれは現われる。だから、君は、まずそれがいつどこで現われてもいいように、そのための余地を空けるべきだ。